NO NUKES PRESS web Vol.007(2018/07/26)

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NO NUKES PRESS web Vol.007(2018/07/26)
 
NO NUKES! human chains vol.03:落合恵子さん ロングインタビュー (聞き手:Misao Redwolf)
 
福島原発事故発生から7年がたちましたが、原発事故はいまも続いています。事故収束もままならず放射能の放出が続き、避難生活者も5万人と言われています(2018年3月現在)。圧倒的脱原発世論を無視し、愚かな現政権は原発を推進していますが、原発に反対しエネルギー政策の転換を求める人々の輪は拡がり続けています。【NO NUKES! human chains】では、ゲストの皆さんへのインタビューを通じ、様々な思いを共有していきます。
 
【NO NUKES! human chains】では、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。Vol.03では吉原毅さんからご紹介いただいた、作家でクレヨンハウス主宰での落合恵子さんのロングインタビューをお届けします。
 
古賀茂明さん吉原毅さん落合恵子さん


【NO NUKES PRESS web Vol.007(2018/07/26)】NO NUKES! human chains vol.03:落合恵子さん ロングインタビュー(聞き手:Misao Redwolf) http://coalitionagainstnukes.jp/?p=11302 https://pic.twitter.com/1vHPIzBQ0p

 
 

– 福島の原発事故の前のこと – 
 
Misao:落合さんはこれまでにも様々な社会的問題のご発言が多いのですが、原発問題では『さよなら原発1000万人アクション』の呼びかけ人をされています。原発問題に関わることになった経緯を教えてください。
 
落合:ずいぶん以前のことになりますが、スリーマイル島からはじまって、その後にチェルノブイリの原発事故を体験したとき、私たちは原発を使い続けてはいけない、原発をもち続けてはいけないとわかり、それをどのようなかたちで広めたらいいか考えました。私は原発は危険であること以外ほとんど知らなかったから、当時、市民科学者といわれた高木仁三郎さんに来ていただいて、いまやっている『原発とエネルギーを学ぶ朝の教室』(以降『朝の教室』/http://www.crayonhouse.co.jp/shop/pages/Morningstudy_kako.aspx)の原型のような勉強会を開き、いろいろと学びました。
 
Misao:それは、クレヨンハウスでやられたのですか?
 
落合:はい。ご高齢の方もいたし、若いお母さんたちも参加されていて、彼女たちもデモに行ったり抗議行動をしたりしましたが、残念ながらひとつの流れとして持続することはできませんでした。いまでも九州で活動されている『まだ、まにあうのなら―私の書いたいちばん長い手紙』を書かれた甘蔗珠恵子(かんしゃたえこ)さんや、「核燃まいね」の倉坪さんとかいろいろな方との交流もあったのですが。これはひとつの言い訳でしかないかもしれませんが、社会的に次々といろいろなことが起き、うねりを持続することが難しかったです。
 
そこで、『朝の教室』から生まれたブックレットを刊行するとき、創刊の言葉として冒頭に、「知らなかった、知らされなかった、知ろうとしなかったとは、もう言えない」とチェルノブイリの原発事故のときに書いた言葉を、再度記しました。2011年3月のあの日以来、もう一度自分に問い直したいと。チェルノブイリ原発事故の後も、ずいぶんいろいろなところでお話しをさせていただいたり原稿を書いたりもしましたが、徐々にそういう依頼が消えていきました。私が発行人をしている雑誌ではずっとフォローしてきましたが、継続するひとつの流れにはなり得なかった事実があります。
 
2011年2月末の締切りで、珍しくエネルギーについての原稿依頼があり、久しぶりにこのテーマについて書ける、と。祝島がクローズアップされていたときだったので、私は祝島の反対運動に自分の思いをかけたいと書いたのですが……。雑誌に掲載される前に3月11日に。その原稿の中で私は、ダイアン・モントーヤさんからうかがった「ネイティブ・アメリカンはなにかを選択決定するときに、7世代先の子どもたちを考える」という言葉も原稿の中でご紹介しました。ヘレン・カルデコットさんの、私たちが「茹で蛙の法則」と呼んでいるエピソードも。7世代先までいかなくとも、いまここにいる子どもや、誕生前の命を考えていきましょう」。そんなことを書いて、原稿を送り、その号が刊行される前に東電の福島の原発事故が起きてしまいました。
 
 
– 『さようなら原発1000万人アクション』の呼びかけ人に –
 
Misao:その原稿が、予言のようになってしまったのですね…。悪い的中でしたけど…。
 
落合:スリーマイル島やチェルノブイリの事故以降、地震があるといつも、いつでもどこにいても「原発は大丈夫?」と。最初のころは誰とでもそういう会話も交わせたのに、そのうち、「まだ言っているの?」と。力不足だったこともあるのでしょうが、Misaoさん方のように、ひとつの力になり得なかった。その反省と悔いと自己嫌悪が、現在の活動のベースにはあります。非力でも、なにか立ち上げなければしなければと思っていたときに、『さようなら原発1000万人アクション』の呼びかけ人の一人にという連絡がありました。
 
Misao:スリーマイル島からチェルノブイリからずっと思いは継続的にあったのですね。
 
落合:はい。ただ、それを運動として続ける力を、私は持ち得えてなかったのです。無念なことに。『さようなら原発1000万人アクション』の呼びかけ人をお受けするのと同時に、クレヨンハウスで『朝の教室』をはじめました。Misaoさんにも講師として来ていただいたけど、土曜の朝9時スタートなんて信じられないという感じだったでしょ。
 
Misao:はい。実はフラフラしながら講演させていただきました(笑)。
 
落合:でしょう(笑)。『朝の教室』を始めて、いろいろな方がいろいろなかたちで参加してくださり、講演や会場での質疑応答も含めて、参加された方は、自分の地域に持って帰られたりする。とてもいいかたちで続いています。それから、私、呼びかけ人という役割は、本当は苦手なんです。責任があるでしょ?これ以上、重たいものは背負いたくないという思いもあって、それまでは賛同人どまりだったのです。けれど、今回は違いました。自分で落とし前をつけたい、と。自宅で介護していた母を見送った後だったということもありましたが。
 
Misao:呼びかけ人になられたことは、落合さんにとってかなり特別なことなんですね。
 
落合:ヘレン・カルデコットさんの、私たちが「茹で蛙の法則」と呼ぶエピソードがありますよね。残酷なエピソードですが、ここに蛙が2匹いて、1匹は熱湯の中に放り込んだら反射的に外に出て命は助かる。もう一方は、鍋の水の中に入れてそのままガスにかけて徐々に温度を上げていったら、飛び出すこともできないまま「茹で蛙」になってしまうという話です。憲法や原発、一強政治のもとで次々に生まれる問題や法案などすべてそうですが、この「茹で蛙」を思いだします。『茹で蛙』は、私たち自身なのだ、と。「どうせ」と諦めを迎え入れて、現状に慣れてしまうこと。3.11の東電福島原発事故のとき、いったい私はなにをしてきたのだろう、私は茹で蛙だったのか、と本当に心が痛かったです。自分に対する憤りも含めて。
 
 
– 3.11当日のこと –
 
Misao:その3.11の当日、そして原発が爆発したときにはなにをしていて、どういうお気持ちだったのでしょうか。
 
落合:私、3.11は神戸にいました。老人医療や介護についての話を、医師や看護師さんや介護士さんにしていた最中でした。テーマは「家族の側から見る医療とは」でした。話が終わる直前になにか揺れた気がしたのですが、立ちくらみかなあ、と。話が終わってすぐに帰京しなければならず、会場の前からタクシーに乗ったら、運転手さんが「大変だ、東北で大きな地震が起きた」と教えてくれました。初老の方でしたが、彼は「阪神淡路大震災で、自分たちがいろいろな方のサポートをいただいたから、今度は自分たちがお返しする」とおっしゃっていました。
 
新神戸の駅に着いたら新幹線は不通。ホテルに泊まって一晩中テレビの前にいました。いま現在、なにが起きているのか。そして、これからどうなるのか。的中して欲しくなかった予感が的中してしまうのか。翌朝、朝一番で帰京。都内のコンビニをいくつかまわったら、水もトイレットペーパーもあらゆるものが消えているのに愕然としました。そのころ書いていた新聞の連載で、「あなたが手を伸ばしたいのはわかる。トイレットペーパーだって水だって大事。けれど、なにかに手を伸ばすそのとき、これを一番必要としている人は誰なのかだけはお互いに考えよう」と書いたことを覚えています。
 
 
– クレヨンハウス『朝の教室』 –
 
Misao:そうして神戸から東京に戻られてから、5月にはもう『朝の教室』をはじめられていますね。
 
落合:当時、もっとも若いスタッフの一人が泣きながら「私はチェルノブイリ以降の生まれですので、本でしかわかりません。かつてやっていた勉強会をまたやってくれませんか」と言われたんですね。じゃあ、やろうと言っているうちに、かつてのチェルノブイリ事故の直後に市民科学者の高木(仁三郎)さんに来ていだいた勉強会に参加されていた当時の若い女性、いまは祖母の年代になっているような人たちも含めて、次々に連絡があり、「勉強会を再開してください」と。こうして『朝の教室』が再スタートしました。
 
Misao:私も2013年、ちょうど5年前に呼んでいただいたのですが、皆さんすごくちゃんと話しを聞いてくださいました。
 
落合:同じ思いのみんなとつながりたいという思いと、反対するにも過不足なく学ばなくてはという思いと、みなさん、とても意欲的です。
 
Misao:すごいですよね、この回数は。
 
落合:まもなく100回です。
 
Misao:『朝の教室』には、本当にいろいろな方がお見えになっていて、すごいなと思います。そして、講師の方も市民運動から芸能人まで幅広いです。
 
落合:先日は、鈴木邦男さんにもお越しいただきました。考え方が全て一致し、うなずけるのも運動として力になるとは思いますが、ある一点での一致から人はつながれるものではないか、と考えます。ある一点、たとえば原発。原発は命に直結するテーマですし、憲法の平和主義も同じです。一点から入って、広げ、深めていけばいいのであって、あまりストリクトに考えてしまうと息苦しい。できるだけ緩やかに、間口は広いほうがいいと私は考えます。
 
Misao:私たちも国会前の集会に、鈴木さんをお呼びしたことがあります。とても穏やかな方だと思いました。
 
落合:深く考えておられますし、穏やかでデリケートな方ですよね。
 
Misao:本当にやさしい方ですよね。
 
落合:それでいて、筋はすっと通されます。
 
 
-「権力とは寝ない」という生き方-
 
Misao:原発問題で立ち上がっていらっしゃる方たちのお話しを聞いていると、原発の問題はイデオロギーの問題とは限らないということを、3.11以降みんなが共有しています。加えて、吉原毅さんのこのインタビュー・シリーズ(http://coalitionagainstnukes.jp/?p=11011)でも、仕事の姿勢だとか生き方や考え方が軸となり、脱原発への行動に繋がっていると感じました。落合さんもこれまで、原発問題だけでなく人権問題や様々な社会問題に取り組んでこられていますが、元々、芸能界の方なので、もっと楽に生きることもできたのではないかと思います。
 
落合:私は芸能界にいたことはありません。放送局(文化放送)に入社した社員でした。当時の仕事のひとつであった深夜放送を担当する女性は本当にまれで、自分が望む方向とは全く違う「扱われ方」をしたのは事実です。で、放送局を辞めて31歳でクレヨンハウスと、フリーランスの物書きとして再スタートしました。
 
Misao:会社員としてアナウンサーをされていたということですね。しかし、若くてきれいだということで、アイドル的にとりあげられたのでしょうか。
 
落合:それはそれで差別的なことなのですが。
 
Misao:当時からそういう考え方だったんでしょうか。
 
落合:「商品化」されていくことに抵抗はしましたし、その現実に背を向けるように、せっせと外部の原稿を書いていました。それを許容してくれる上司に恵まれたことにも感謝していますが、結果的には辞めました。
 
Misao:その方が楽だからそのレールに乗って、いい思いや楽な思いをしていく人たちも多いと思うのですが。
 
落合:どちらを楽と考えるか、ですね。比較的緩やかな職場でしたが、やはり政治的な発言には神経質なところもあって、もっと自分の言葉で語りたい、書きたいという思いを抑えることができなくなったのです。通常楽だと考えるものが、あるものには苦痛になる場合もあります。そこは性格だと思うのですが。
 
Misao:以前インタビューをさせていただいた古賀茂明さんも(http://coalitionagainstnukes.jp/?p=10725)同じようなことをおっしゃっていました。経産省でずっと改革派でやってこられていましたが、原発のことを言い出したらいられなくなった。役所で偉くなるのは簡単なんだ、適当に仕事をしていればいいんだけど、自分にはそちらの方がおもしろくないし、やはり自分が言いたいことを言う方が自分は楽だからと。みんなによく「『I am not ABE』とか普通はできないですよね」と言われるけど、自分にとっては、そちらの方が楽なんだというお話しをされていて。
 
落合:わかります、私もそうだったと思います。私はラジオ局に入社しましたが、いわゆる女性アナウンサーは、どちらかというとメインの男性のパーソナリティー(キャスター)の考え方に、「そうですね」と相づちを打つような仕事が多かったんです。結果が「そうですね」であればいろいろな表現ができますが、そうですね、ではないとき、どうすればいいのでしょう。「私はそうは思いません」と言った瞬間、流れる空気。私はこの壁にずいぶんぶつかりました。
 
70年安保のときにすでに就職していて、深夜放送を担当していたと記憶しています。で、日比谷公園の松本楼が焼けて、学生が暴れているという現場からの中継が入った。中継した報道局員の言葉を借りるなら、学生も「暴れた」かもしれない。けれど、挑発する「権力」も当然いたわけです。そういうのがずっと頭の中にあって、正確な言葉は覚えていませんが、それを生放送中に言ったのですね。問題になりました。そういったことは少なからずあって、妙な言い方だけど「権力とは寝ない」と、ずっと思ってきた。
会社をほぼ10年勤めて辞めるときに、「辞めてなにをしたいんですか?」と聞かれ、「少なくとも私はマスコミと寝ません」と言うと、「なにを言っているのか、こいつ」と。自分の考えを隠すということ、入社当初からそうでしたが、10メッセージしたいことを1か2でとどめておく方が得だという、そういう考え方のほうが苦痛だったな。
 
 
– ウーマン・リヴ/フェミニズム/#MeToo –
 
Misao:性別による格差のない社会であるべきですが、多くの場合そうではないのが現実です。いま、アメリカのハリウッドの女優たちの告発がトリガーとなり「#MeToo」の運動が起こり、あらためてフェミニズムが注目されていますが、落合さんがそういった問題に気付いたのは、ラジオ局に入社するよりも前からなのでしょうか。
 
落合:どこから話そうかな。亡くなった母はシングルマザーでした。73年前に、栃木県の町で、周囲が教育関係者という環境の中、22歳で父親のいない子を出産するというのは、生めよ増やせよと言われた時代の末期であっても、「不道徳」といわれたでしょう。地域社会でも縁者からもいろいろ言われたでしょうが、私が小学校に上がる1年半か2年ぐらい前に、母は私を連れて上京しました。すでに偏見をもって見られる社会から飛び出して、ゼロからはじめたいと思ったのかもしれません。
 
母はずっと仕事をしていました。言葉にする人ではなかったですが、苦労したと思います。ある日突然、彼女が会社を辞めたこともありました。私は小学生低学年でわからなかったけれど、いま考えてみたら、もしかしたらセクシャルハラスメントに遭ったのかもしれない、パワーハラスメントがあったのかもしれない。あえてフェミニズムという言葉を使うとしたら、婚外子の一人として差別される側に生まれたという意味において、私は誕生と同時にフェミニストになった(笑)のかもしれません。
 
当初は「ウーマン・リヴ」、やがて「フェミニズム」という呼称になりましたが、海の向こうから、自分に近い考え方、暮らし方が入ってきたと感じたのは20代半ば過ぎだったかもしれません。退職して、30代で性暴力を告発する、『ザ・レイプ』という小説を書き、『セクシャルハラスメント』や『セカンドレイプ』といった言葉と概念を社会に出したいと思いもあって、それぞれ敢えて小説のタイトルにつけて発表しました。プロパガンダだと言われたし、ある意味そうなのかもしれないけど。映画化されたり、ドラマになったりもしましたが、それが30数年前のこと。今回の「#MeToo」の活動を見てあらためて、社会は変わっていなかったのだと愕然としました。「まだ、ここに、その社会があるのだ」と。
 
麻生さんの「セクハラ罪ってないでしょ?」という発言とか。それがきわめて重大な人権問題であるという意識が永田町というか、社会そのものに希薄なのですね。私たちが30代だった頃、そしてその後も、フェミニズムが変えた文化が少しはあったような気がしたし、そう思っていたけど、そうではなかった。そこで、いまできることとして、マスコミの女性たち有志がまとまってネットワークをつくられましたが、年長組の一人として賛助会員になります。現場に現役でおられる方の中には、名前を出せない人も多いようです。
 
Misao:名前を出さなくても、そうした闘い方もありますよね。
 
落合:いいんですよ、いろいろな闘い方で。無理することはない。個人やある集団が、圧力を受けてものすごくつらい思いをしなければいけない闘い方は、結果的に長続きしない場合が多い。年上で少しだけ背負うものが軽くなっている世代も、「参加します。私は名前出します」でいいと思う。「#MeToo」がハリウッドではじまったとき、「どうして日本ではこれに乗れないんだろう」となにかのコラムに書きました。けれど、ようやく流れがでてきたことを歓迎します。
 
Misao:麻生さんの発言はアウトなのですが、一方で燃料を投下してくれましたね。
 
落合:27~28年前ぐらいかしら。米国でクラランス・トーマス判事とアニタ・ヒルさんのセクシャルハラスメントについての公聴会というのがあったんですね。2人ともアフリカ系アメリカ人であるために、セクシュアル・ハラスメントという人権問題が、人種問題にされた。アニタ・ヒルさんが告発したことに対しても、「長い間沈黙をしていた、今頃になってなぜ?」とも言われた。被害者の多くは、すぐには言葉にできなかった、自分の苦痛を表す言葉に出会えなかった、ということなのですが。
 
その頃、New Words Bookstore、「新しい言葉」という名前のボストンのフェミニスト系の本屋さんに行ったら、多くの女性たちが彼女を支援しますと書いた大きなポスターが貼られていた。感動して、「セクシャルハラスメントのことですね?」と言ったら、「はじめて知りました。なぜあなたは知っているんですか?」と言われました。私は米国のフェミニズムから学んだつもりだったのですが、米国に暮らす人たちも、この公聴会を通してはじめて知ったという方が多かった。
 
つまり、ひとつの運動、その運動が意味することが広く行き渡るには、残念なことではあるのですが長い時間がかかるという証明なんですよね。あらゆる運動のテーマはそうかもしれませんね。早く答えを出して、着地したいけれど、すぐには出ない。セクシュアル・ハラスメントも同様でしょう。いろいろな意味で「心理的時差」というのもあって、日本ではいまようやく次の次の世代かな、新しい運動が出てきたとも、受け継いでくださったとも言えますね。
 
 
– マスメディア –
 
Misao:私がまだ子どものころに、ウーマン・リヴの運動がマスコミにも取り上げられていましたけど、なにか特別な人たちがやっているようなイメージがありました。
 
落合:Misaoさんもきっとそういう体験があると思うけど、決して特別な人ではないのですよね。それぞれ一般の市民が止むにやまれぬ思いで声をあげていることが多いですよね。取材する側あるいはカメラで撮る側が「特別な人」をつくっていくわけです。意図的に、あるいは無意識に。当たり前な生活者であるのに、この人はこういう人、その人はこういう人という引き出しがいつもあって、その引き出しのどこかに一人ひとりを入れて、レッテルを貼ることで安心してしまう。
 
沖縄・高江で反対の運動をしている方とか、反基地闘争している人たちを「プロの運動家」と言い放ったり。ああいう言い方は、人を分断させ、孤立化させていくのに役立ちますよね。レッテル貼りにも。そこに、意識的であろうと無意識であろうとメディアがかかわっているということは、私もマスメディアで10年間働いてきて、その後フリーランスになってもメディア以外で働いたことがないから、自分が身を置いているメディアって何なのだろうと胃が痛くなります。
 
Misao:私たちも脱原発運動がピークだった2012~14年頃は取材が多かったのですが、ニュースをわかりやすく作ろうとしているなと思うことはありました。記者の情報リテラシーの問題なのか、またはニュース性を考えるのか。SEALDsのときは「学生」というワードがバーンときました。私のようにフリーのイラストレーターでなにをやっているのかわけのわからない人よりも、学生とかママとか、一般的にわかりやすい出し方をしたいのかなとすごく感じましたね。
 
落合:引き出しに分けやすいのがいいんですよね。でも、わかりやすさだけを追いかけたら、本当のものが見えなくなってしまう。全体が単純化している社会かもしれないね。でも、Misaoさんの登場は鮮烈でしたよ。おーっ、カッコいいな!と(笑)。
 
 

– 「クレヨンハウス」ポリティカルな運動の場であると同時に文化的な活動の場 – 
 
Misao:ありがとうございます。ところで今日は、お店(クレヨンハウス)をあらためて拝見させていただいたのですが、すごく落ち着く空間ですよね。すごくやさしい空間というか、外に出たら人もいっぱで騒々しいし、安倍政権もとんでもないし、特に私たちみたいに社会運動をしていると、なにか心がささくれている感じがあるわけです。それとは違う空間に来たようで、品物の一つひとつもすごく丁寧にセレクトされているんだろうなというのが伝わってきて、生産者やお客様に対する愛情みたいなもの、すごくベタな言い方なんですが、広義的な母性をすごく感じました。私は母性が足りないのですが(笑)。
 
落合:私も足りないんだけど(笑)。スタッフががんばってくれています。原発事故の後に自殺された、有機のキャベツをつくっていた方。私は会ったことはなかったですが、彼のキャベツの評判を聞いていた。彼の場合はお孫さんや他の子どもたちに有機のものを食べてもらいたいとやってこられて……。原発事故で出荷できなくなったキャベツの山を背にして自死されたのです。有機の八百屋やレストランをやっているクレヨンハウスにとっては仲間のお一人だった。
 
納得できない、おかしいという思いがまずあって、運動に加わるようになる。けれど、疲れることもある。人としての自由を求めて運動に参加したら、自由時間が極端に減ったというジョークもあるほどです。だからこそちょっとだけ深呼吸の瞬間を大事にしないと。植物の挿し芽をしたり、花が育ってくれる傍らにいるとき、私はもっとも優しくなれる。ここに咲いている季節の花々の多くは、家で種子をまいて、クレヨンハウスにもってきたものです。発芽のときの興奮は何百回味わっても素敵です。
 
Misao:クレヨンハウスを主宰されて40年以上ですよね。おそらくいままでも政治家になってくださいとか、そういうお話しもいろいろあったと思いますけど、クレヨンハウスというひとつの道をやってこられました。
 
落合:あえて言ってしまえば、クレヨンハウスは私にとって、ある種のポリティカルな運動の場でもあり、同時に文化的な活動の場でもあります。この2つをドッキングすることは現実的にはかなり難しいことなんだけど、そうありたいと思っています。友人たちの中には政治家になった人もいるけれど、私は性格的にたぶん向かない(笑)。すぐにケンカしちゃうだろうしね。
 
Misao:とはいえ、選挙出馬の要請はたくさんあったと思います。
 
落合:ありましたけれど、公人ではなく、個人として生きていきたいという思いが強くあります。あらゆる意味をこめて、「私は個人です」と。
 
 
– 味わうこと、花の種をまいて育ってもらうこと –
 
Misao:落合さんは個人でありたいとおっしゃっていても、私たちの社会運動の中ではアイコンのような存在になっていると思うんです。そんな落合さんの表立っての作家としてのご活動や、クレヨンハウスですとか、社会に向けてのご発言については多くの人が知っていますが、私生活についてはミステリアスなイメージがあります。
 
落合:そうなんだ(笑)。
 
Misao:おそらく、ご自分にも仕事にも厳しい方なんだろうなと私は勝手にイメージしているんですが…。
 
落合:いい加減ですよ。スタッフには、みなさんに使っていただくところはきれいにしようねとか、掃除をちゃんとしてくださいと言っているけど、自分の仕事部屋は、も、大変(笑)。書棚に入らず積んである本は崩れるし、書類や資料は見つからないし。唯一、きちんとしているのは、食事。有機の八百屋をしているから、調味料からすべてクレヨンハウスで準備できることもあるけれど、「ちゃんとご飯を食べよう」は実行しています。後片付けは、誰かがやってくれたら嬉しいけど(笑)。
 
味わうということや、花の種をまいて育ってもらうとか、それらは私にとって、暮らしの中の不可欠な要素です。年を取ったら朝、目が覚めるのも早いのよ。前は寝る時間だった5時半ぐらいに起きて、小さな庭の小さな椅子に座って、ボーッと植物を見て、水やりをして、それからコーヒーをいれる。それが私の至福の時間です。そこから一日がはじまる。
 
Misao:夜は何時に寝られるんですか?
 
落合:たまに徹夜もありますが、だいたい午前零時頃には寝ている。
 
Misao:それでも睡眠時間は5~6時間じゃないですか。睡眠は足りていますか?
 
落合:足りています、新幹線でもどこでも寝られるので、移動のときは寝ている。新幹線が発車する前に寝ているという。どこでも熟睡できます。そんなにデリケートじゃありません、健康なんでしょう。
 
Misao:地方のホテルとかでも大丈夫ですか?
 
落合:枕が変わっても大丈夫。
 
Misao:ちょっとうらやましいな、私はダメで…。どんなに疲れていてもホテルとかだと寝付けなくて、2~3時間も眠れないんですよ。睡眠に関してというか、変なところが神経質で…。
 
落合:それは大変ですよね。私は、人と話している最中にも寝たりするので(笑)。
 
 
– 音楽と映画 –
 
Misao:ところで、植物を育てたりされていますが、ほかにご趣味はありますか?
 
落合:そうですね。あとは音楽かな。凝りだすと、ある人のCDを2週間とか3週間ずっと聴いています。いまはトランペット奏者のチェット・ベイカーが歌っているCDを聴いています。私は観てないんだけど、去年、チェット・ベイカーの人生を描いた映画が公開されたんですよね。DVDで観なくては。音楽も映画も好きで、CDとDVDに関してだけ、私はお大尽です。
 
Misao:音楽だったら気楽に聞けるけど、DVD(映画)だと2時間とかまとまった時間が必要になりますね。
 
落合:前は夜中、夜の続きの中で観ていたんですが、いまは同じ時間帯なんだけど朝起きてから観ています。泣きたくなると、バーブラ・ストライサンドとロバート・レッドフォードの『追憶』(The Way We Were)を観たり。ふたりが別れた後、レッドフォードは成功の階段を登り、バーブラ・ストライサンドは昔と同じように水爆かな?原爆かな、反対の運動をしていて、チラシを配っている。そこに、あの名曲が流れるんですよね、エンディングに。おおっ!と思う。
 
Misao:ほかにもお好きな映画はいろいろあると思いますが、聞かせていただけますか?
 
落合:山ほどありますが、1980年代の映画で『再会の時』(The Big Chill)。ベトナム戦争反対を一緒に闘ったかつての学生時代の仲間が、十数年後に仲間の一人が自死をしたことで集まって、数日間、ミシガン湖のほとりで過ごすストーリーなんですよね。中には以前はむしろ敵対していた週刊誌の記者、それもゴシップライターになった人がいたり、資本主義を破壊しろと言っていた人が企業の代表になっていたり、一人ひとりが違っていて。そんな中での再会の瞬間、かつてあって、そしていまでもあるであろう友情の中で、少し新しい自分を見つけてまたそれぞれの居場所に戻っていく、という話しでした。
 
タイトルの『The Big Chill』。直訳すると「大きな肌寒さ」。それが、日本語タイトルでは『再会の時』。この作品では、彼らが学生時代を送った60年代のモータウン・サウンドがたくさん使われているんです。彼らがベトナム反戦運動をしていた60~70年代の曲が次々に出てきて、それを聞いただけで胸が震える。30年近く前ですが、ここ(クレヨンハウス)で上映会をやったこともあります。
 
Misao:私は『追憶』は観たことがありますが、『再会の時』はまだ観ていないので、今度観たいと思います。
 
落合:忘れられない作品はたくさんあります。『ミシシッピー・バーニング』(Mississippi Burning)での人種差別問題とか。『告発の行方』とか。
 
Misao:やはり、社会的問題がテーマになっている映画に惹かれるのでしょうか。
 
落合:どちらかというとそうかもしれない。私はまだ観てないのですが、2017年アカデミー賞主演女優賞をとった、フランシス・マクドーマンドの『スリー・ビルボード』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)。娘をレイプされて、どこに行っても誰も取りあわないなかで怒りをどんどん募らせる女性の話。怒る女であり、諦めない女であり、闘う女ですよね。日本公開は終わったかもしれないけど、まもなくDVDになるはずなので観ます。
 
Misao:このあいだ『ペンタゴン・ペーパーズ』(The Post)を観たんですけど、よかったですよ。
 
落合:それも観なきゃ。
 
Misao:私も、ここのところ少し余裕が出てきて映画も観られるようになってきたんですけど、3.11の原発事故から2年ぐらい映画を観に行けなかったんですね。それまで、最後に観たのはマイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』だったという(笑)。
 
落合:なるほど。でも、マイケル・ジャクソンだって見方を変えれば、ずいぶん差別的な社会の中で生きてきた人ですよね。
 
Misao:がんばって生きたのだと思います。最後は環境破壊のことを訴えていましたから、亡くなってしまいとても残念でした。
 
 
– 「フェミニズム」という言葉でなくてもいい –
 
Misao:いま落合さんとお話しをさせていただいた中で、自分なりに、少しだけでも落合さんの生きてきた道を感じることができました。落合さんといえば「フェミニズム」というイメージがありますが、これについても、落合さんの生い立ちや環境の中から、自然に心に芽生えたように思いました。
 
落合:名前は何でもいいんだと思う。たまたま、みんなが「フェミニズム」と呼ぶものと、私の内側にあったものが合致しているということです。フェミニズムを「女権拡張」とか訳す人もいますが、基本的には人権問題だと思うし、フェミニズムというのは、男性社会というナショナリズムに対して「異議あり」という視点だと思うのね。だから、フェミニズムはアンチ・ナショナリズムであり、安倍政権NOということとまさに重なること。
 
Misao:そうですよね。さらにもっと大きな枠でいうと民主主義というものの中のひとつのかたちですよね。
 
落合:まさにそうですよね。どこから入ってもいい、と思います。
 
Misao:3.11以降、または安倍政権の出現によって、民主主義という命題がふたたび色濃く打ち出されています。また、ふたたびフェミニズムということがいわれていています。今回、トリガーとしてはハリウッドの#MeTooがありましたけど、以前のフェミニズム運動からの繋がりはあるのでしょうか。
 
落合:昔からの流れはどこかの時点で、途切れたように見えますが、やはりどこかで受け止められ、繋がっているんですね。
 
Misao:受け止めているんですよね、先人の方たちのいろいろな思いや行動を。ところで、落合さんには、尊敬してきた方はいらっしゃるのですか?
 
落合:どの国のどの社会においても、大きな力に対して弓を引いた人はみんな尊敬しています。
 
Misao:無名な人も。
 
落合:もちろん。
 
 
– 無理しないで、疲れたときは休んでいい –
 
Misao:最後に、私たちの金曜官邸前抗議はいまだに続いているんですが、参加されている方や支援してくださっている方に、メッセージをお願いします。
 
落合:運動のすべてに対して思いますが、無理しないで、疲れたときは休んでいいよ。その代わり、また一緒にやろうねという気持ちで続けていきたいですね。私は「テイク・ア・バケーション・ビフォー・ユー・バーンアウト」( Take a Vacation Before You Burnout )という言葉が好きなんです。あなたが燃え尽きる前にテイク・ア・バケーション、ちょっと休みを取ろうよ、というフレーズが好きです。大事なことだと思います。短期間、全速力で走って息を切らしてしまったら、続けることが難しくなる。やはり続けることでしか答えは出ないと思います。
 
Misao:実際、特に2011年の原発事故の後、脱原発デモがいろいろなところであったじゃないですか。やはり、いま落合さんがおっしゃったようにバーンアウトして、疲れて来なくなる人たちも、すでにいらっしゃいます。
 
落合:『さよなら原発1000万人アクション』に参加される方も、どちらかというと60代、70代が多くていらっしゃる。私もそうですが、残り時間を考えると、ちょっと焦ります。でも、それで疲れてはいけない。私たちはバーンアウトしてはいけない。
 
Misao:続けるにしても無理はしないようにということですね。
 
落合:そう思います。そのとき行けなかったら、次のときに行けばいいんだよ、とはやる自分に言い聞かせています。無念なことではありますが、すぐには望むような答えは出ない。だから、継続が力となるのです。
 
 
(2018年5月14日:クレヨンハウス東京店にて) *写真:クレヨンハウス「いいね」26号より(撮影・神ノ川智早)
 
 
落合恵子 <プロフィール>
作家・クレヨンハウス主宰。
1945年栃木県宇都宮生まれ。株式会社文化放送を経て、作家活動に。執筆と並行して、東京青山、大阪江坂に子どもの本の専門店クレヨンハウス、女性の本の専門店ミズ・クレヨンハウス、子どもの想像力を育む玩具の専門店クーヨンマーケット、有機食材の店「野菜市場」、オーガニックレストラン等を展開。総合育児、保育雑誌「月刊クーヨン」、オーガニックマガジン「いいね」発行人。社会構造的に声の小さい側、子どもや高齢者、女性や、マイノリテイにならざるを得ない人の声を主に執筆。「さようなら原発1000万人アクション」、「戦争をさせない1000人委員会」呼びかけ人。
最近の主な著書に、「おとなの始末」(集英社)、「老いることはいやですか?」(朝日新聞出版)、「決定版 母に歌う子守唄 介護、そして見送ったあとに」(朝日新聞出版)、「泣きかたを忘れていた」(河出書房新社) 他、多数。
 
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<予告>NO NUKES! human chains vol.04
このインタビュー・シリーズでは、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。落合恵子さんからは、作家のドリアン助川さんをご紹介いただきました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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