NO NUKES PRESS web Vol.026(2020/02/27)

Posted on by on 1月 28th, 2020 | NO NUKES PRESS web Vol.026(2020/02/27) はコメントを受け付けていません

NO NUKES PRESS web Vol.026(2020/02/27)
 
Opinion:日本の「脱原発」、10年の節目を前に
 
寄稿:西谷修(哲学者)

 
3.11福島第一原発事故から丸9年経ち、10年目に突入します。行方を見失った「日本の10年の災厄」はいかにもたらされたのか…哲学者の視点から、ラジカルでパンキッシュな筆致で西谷修さんがご寄稿くださいました。

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少し気が早いけれど、オリンピックの火が落ちれば来年はもう福島第一の原発事故からはや10年。事故から2年弱で自民党政権が「日本を取り戻し」、事故の結果に蓋をしながら原発政治のアクセル踏んだ再稼働、図々しくも他国が撤退した後で輸出促進、さすがにもんじゅは諦めたが、核燃料サイクル計画は展望のないまま惰性で続けている。
 
 
桜と札束
 
そのころは、技術的にも経済的にも原発が立ち行かないのは明らかで(だからドイツをはじめ賢い国は撤退した)、政府がどんな政策をとろうとも早晩「脱原発」は実現するとも言われていた。だが甘かった。合理で日本は動かない。自民党政府・安倍官邸と経産省は、はじめは目立たず、しかし次第に公然と積極的に(武器を防衛装備と言い換えたあたりから)、災害より原発「復興」を経済・軍事両面で進めるようになる。
 
本家アメリカでも私企業が原発の経済性に見切りをつけ、それをわざわざ買いに出てババを引いた「世界の東芝」はとうとう沈没寸前、イギリスその他の国々も、かさばるコストを負いきれず次々に撤退し、アベ日本は愚かにもその空白を占めようと政府肝入りでセールスしたが、もう終わった市場、ここにきてすべてがとん挫した。
 
さすがに、原発正当化はもうできないと思われたところに去年の関電疑惑。国策電力会社、地元自治体、大手ゼネコン、御用学者が「顔役」に仕切られる、かつて「原子力ムラ」と言われた社会の闇に根を張った利権構造の露見だ。これでは原発が止まるはずがない。技術的難題や経済見通しがどうであろうと、国や社会の将来がどうであろうと、原発は儲かるという「反社会的」利害関係が、原発政策を維持推進していたのだ。まさに、かつての敦賀市長高木某(「パンツ大臣」のオヤジ)が言ったように、先のことはわかりませんよ、しかしとにかく今はやっておいた方がいい…。その「今」だけのため、官僚は辻褄合わせし、学者は都合のよいデータを出し、裁判所まで追従する。そして、この構造で私利を貪る者たちが、原発推進をヤドカリの殻のように守り、その上に政権が君臨している。
 
辺野古の新基地建設強行も、米軍のためは表向き、事業の実態は原発と同じだということがもう隠せない。そのような現在の日本の「統治」のあり様を集約的に露見させたのが「桜を見る会」だ。権力のうま味を仲間の供応で吸い尽くす。そして有象無象――特に感染力をもつエンタメ興行関係――を利権構造に取り込むことで裾野を広げる。その表のお題目になっているのが「改憲」だ。改憲の狙いは、「美しい国」つまり「国民が文句を言わずに国家に尽すようなお国柄」にすること、そして自分たちが国家を乗っ取って(「上級国民」?)、従順で逆らわない国民に税金を払わせ、命を差し出す気構えまで要求し、担がせた神輿に乗ってこの国の「真ん中に輝く」、そんな、わが世の春のミニ演出が「桜を見る会」だ。
 
ある意味で「改憲」を掲げた意図はすでに実現している。だからほんとうは安倍政権は目標を失っていると言ってもいい。にもかかわらず原発政策が捨てられないのは、まさにこの惰性の維持によってしか、この政治構造が成り立たないからだ。
 
ということは、この先にはもはや破綻しかない。それが約束されているのが「オリンピックの翌日」である。札束刷り散らして株価を支え、人間をすり潰して法人企業を助け、資産家・投資家だけを肥やすアベノミクス。アメリカに市場も明け渡し武器も爆買いして、自分だけ本家に認めてもらう国売り外交。それで崩れゆく日本をもはや誰も支えられない。誰もがそれを予測しているが、ともかく「お祭り」までは、ということで突っ走っている。その「洪水の後」に残される世代には、あらかじめ自助要求(自己責任)、ボランティア精神、でなければいじめに道徳教育…で、文句を言わないように備えている。そしてオリンピック明けは大災厄の10年目、この10年の日本を主導した安倍政権は消えてゆくが、誰も責任を問わない、問われない。こうして10年目に「大災厄」が拡大反復される…。われわれはそれに備えなければならない。
 
 
自由市場の聖火が消えるころ
 
世界の来歴を振り返り、現代の発端に目を凝らすと…。18世紀前後にヨーロッパ(イギリス)で、天賦の大地が私有化されて、追い出された人びとが都市周辺に吹き溜まり、勃興する産業の窯の焚き木(安価な労働力)となったことはよく知られている。そのころ、大陸の哲学者ライプニッツは、アウグスティヌス以来の「悪」の問題(全能にして善なる神の御業であるこの世界に悪が満ち満ちているのはなぜなのか?)に「合理的」な解答を与えた。個々の観点からすると「悪」と見えることも、全体としての世界が「善」であることに貢献しており、神はあたうかぎり最善の世界を造ったのだと(予定調和説)。これによって「神の国(善)」と「地上の国(悪)」とは、無限を全体に転化する微積分計算によって通約され、全体システムを語る近代世界の視野が開かれた。
 
すぐ後にロンドンに登場するのが精神科医(魂の医者)バーナード・ド・マンデヴィル。彼は私欲の「罪」に悩む患者(とうぜん金持ち)を治すため、次のような処方を与えた。あなたの悪行は、実は世の中にたいへん貢献している。社会は分業で成り立つ。強盗がいなければ鍵屋は商売にならない。医者もそのおかげで繁盛する。建具屋も、警察だって仕事にありつける。だから、あなたの所業は世を潤し、全体の繁栄に大いに役に立っている。ほら、ロンドンの街をごらんなさい。ドブや掃溜めから異臭が立ちのぼり、浮浪者や犯罪者が跳梁して、物騒なことはなはだしいが、売春宿は今日も繁盛、都会の灯は華やかです。私欲の発露、それこそが社会の原動力、それを束縛してはいけない、自由にやりなさい。「私悪、すなわち公益」と(『蜂の寓話』)。
 
マンデヴィルの処方はこうして、私欲を思うさま羽ばたかせる「自由」を勧奨した。当時のイギリスの自由主義者たちは、ジョン・ロックが定式化したように、「自由」とは所有に基づくと考えていたから、貧民に自由がないのは当然だとみなしていた。だから貧民救済の社会的措置にも厳しく反対した(ポランニーが問題にした「救貧法」批判)。しかし、慈悲を叱って売春を奨励したマンデヴィルは、あまりに不埒(ひと聞きが悪い)というので禁圧され、後はアダム・スミスが道徳形而上学でガーゼに包んで、「みえざる手」で調整される市場経済をそれらしく理論化した。マルクスはそのカラクリを暴いたが、20世紀にマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズム」の勤勉・節制の精神が資本主義を生んだという誤解を広めると、資本家やその追従者たちは、そうだ、それが近代化の原動力で、自由と民主主義のシステムを世界に広めたのだと「プロ倫」を持ち上げた。
 
だが、社会主義的管理統制の登場を踏み台に、フリードリヒ・ハイエクが留め金を外す。彼はあらゆる制度的拘束や政治の介入を否定し、「個」の無制約な「自由」を主張した。だが、そんな「自由」な市場は存在しない。だから腕づくで作り出すしかない。その「理想」を弟子のミルトン・フリードマンが、クーデターで軍事政権下に置かれた南米チリに適用する。それが現代のグローバル世界を席巻する新自由主義の発端である。
 
しかしこの「新」自由主義は実はまったく新しくない。というのは、私的欲望の無制約な発露がシステム全体の最適化を生み出すというヴィジョンは、マンデヴィルがあからさまに語っていた「現実」だったから。グローバル化のいまそれが装いを変えて実現してしまったのは、デジタル情報化革命があったからである。人間社会のあらゆる現実が、差異と境界を越えニュートラルな因子に還元され、とめどない情報の奔流に流し込まれる。何から何まで財とされ売り物にされる「全面市場化」の世界である。だが、デジタル情報ネットで「統治」される社会でも、現実に生きる人びとは、まさにマンデヴィルの世界を生きていることになる。そのモーターが核エネルギーであり、デジタル情報技術であり、生命科学他の先端テクノロジーなのである(イノヴェーションが要請する)。
 
ましな政権をもつ国では、国民・市民の存続のためには原発はやらなくなる。しかし、日本のようにドブ川の目先の餌で身を保つ者たちが国を「取り戻した」ところでは、国は泥船と化して濁流に呑まれるがままに任される。それをごまかすために、視界の悪い行き先に残りの火薬をつぎ込んで祭りをやる。それが都会の賑わいの最後の花火というわけだ。
 
そんな10年後になるとは誰も予想しなかっただろう。まさに「想定外」である。このように行方を見失った日本の10年の災厄のなかで、ひとり反原連は毎週金曜日に官邸前で、食いつぶされかき曇る「未来」への松明を灯し続けてきた。うす闇の空の下で、今日も「再稼働反対、再稼働反対」とリズミカルに声を上げる黒いシルエットが浮かびあがる。大災厄の翌日のヴィジョンから、ひとつの方向を指す燈明のように、世界の闇からの出口を指して。脱原発、そこがまず動かすべき梃子だから。
 
 
 
西谷修 <プロフィール>
1950年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業、東京都立大学フランス文学科修士課程修了。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授を歴任、東京外国語大学名誉教授、神戸市外国語大学客員教授。フランス文学・思想の研究をはじめ、世界史や戦争、メディア、芸術といった幅広い分野での研究・思索活動で知られる。著書に『不死のワンダーランド』(青土社)、『戦争論』(講談社学術文庫)など。「立憲デモクラシーの会」、「安保法制に反対する学者の会」の呼びかけ人を務める。
 
 
 
 
 
 
 
 

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