NO NUKES PRESS web Vol.025(2020/01/30)

Posted on by on 1月 26th, 2020 | NO NUKES PRESS web Vol.025(2020/01/30) はコメントを受け付けていません

NO NUKES PRESS web Vol.025(2020/01/30)
 
NO NUKES! human chains vol.12:KOさん ロングインタビュー (聞き手:Misao Redwolf)
 
福島原発事故発生から9年が経とうとしていますが、原発事故はいまも続いています。事故収束もままならず放射能の放出が続き、避難生活者は約4万1千人と公表されています(2020年1月現在)。圧倒的脱原発世論を無視し、愚かな現政権は原発を推進していますが、原発に反対しエネルギー政策の転換を求める人々の輪は拡がり続けています。【NO NUKES! human chains】では、ゲストの皆さんへのインタビューを通じ、様々な思いを共有していきます。
 
【NO NUKES! human chains】では、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。Vol.12では西片明人さんからご紹介いただいた、KOさん(SLANG)のロングインタビューをお届けします。
 
古賀茂明さん吉原毅さん落合恵子さんドリアン助川さん島昭宏さん後藤正文さん細美武士さんTOSHI-LOWさん横山健さん石井麻木さん西片明人さんKO


【NO NUKES PRESS web Vol.025(2020/01/30)】NO NUKES! human chains vol.12:KO @KO_SLANG さん ロングインタビュー(聞き手:Misao Redwolf)pic.twitter.com/RYf8JKCw7d http://coalitionagainstnukes.jp/?p=13447

 
 

ー東日本大震災 – 阪神淡路と奥尻の記憶ー 
 
Misao:2011年3月11日に東日本大震災が起きて原発が爆発しましたが、KOさんはなにをやって、どういうふうに思われたかをうかがいたいと思います。
 
KO:おれは3月12日生まれなんですが、もうすぐ40歳になるし、なにかちょっとマジメなことをやっていかないとダメだと思って、動物保護とか障がい者施設のこととか、戦争とか原発のことなどを発信するWeb媒体を作ろうと思ったんです。それで、2010年の秋頃からネタ集めをしていたんですが、6~7割ぐらいコンテンツがまとまってきたところで震災が起きたんです。
 
当日は、朝まで飲んでいて二日酔いで寝ていたんですが、えらい揺れて棚の上に積んでいたバンドTシャツやCDが落ちてきたんです。おれは日高出身なんだけど、日高はすごく地震が多いんですよ。日高沖とか奥尻のときの揺れと似ているな、内陸なので普段あまり揺れない札幌がこんなに揺れるということは、どこかがえらいことになっているな、と直感的に思いました。で、すぐに飛び起きたらまた揺れが2~3回きたので、これは絶対におかしいと思って棚を押さえながら、情報を得たくてテレビをつけてネットを立ち上げました。南三陸町の津波を携帯で撮影している映像を見て、なんだこれ? と驚いて、そこから3日ぐらい、ほとんど寝ずにテレビやネットで情報を収集していましたね。
 
Misao:私もそうでした。ちょっと仮眠をとって、またネットを見てという感じで。
 
KO:そんな感じでしたよね。阪神淡路大震災のときに、札幌からボランティアに行ったやつがいてね。不良でおもしろいことをやるやつなんだけど、身近でボランティアをしたやつは初めてだし、帰ってきていろいろ話を聞きました。その翌年に奥尻で地震があって(北海道南西沖地震)、おれもボランティアに行きたいと思ったんだけど、行けなかったんですよね。そのころ、おれに子供が生まれてそんなに経たないころで、お金もなくて。
 
昔、立て続けに大災害が起こったのに、何もできなかったというのが、ずっと残っていたんですよね。漠然とですが、次になにかあったら必ず行動しようと思っていたんです。さっきお話しましたが、福祉的なサイトというか、フードバンクみたいなイメージのサイトを作ろうと考えているときに地震が起きて、津波の映像を見た瞬間に、絶対におれは東北に行かないとダメだと思ったんです。
 
それで、震災の1週間後に物資支援に行きました。東京の友達の地元が宮古なんだけど、そいつから地元の友達と連絡が取れないと連絡があったので、おれが物資をいろいろ持っていくよと言って宮古に行ってきたんです。車両通行書を警察にもらえたので、高速に乗れたり、ガソリンを優先で入れることができました。ガソリンスタンドに何キロもの車の列ができて、車内で待っている間に、エコノミー症候群で何人も死んだような状況だった。
 
Misao:通行証をもらえたのは、物資を届けに行くという理由からでしょうか?
 
KO:そうです。現地で受け入れる人の証明があればもらえるので、青森の友達にお願いしました。函館、青森は行政の手配したトレーラーやトラックの専用になっていて民間の車が全然乗れなくて、新潟まで行ったんですが、秋田も通れなかったので、新潟から福島を通って、仙台の沿岸部の友達のところに寄って荷物を下ろしました。そこから国道45号を北上して宮古に行きましたが、途中橋が落ちていて通れなかったりしましたね。何日か後には、その東京の友達と宮古で合流できました。
 
 

ー流されてなにもないー 
 
Misao:最初のインパクトは津波の映像だったわけですが、福島の原発のことは意識していましたか?
 
KO:メディアが原発のことを言いだしたのは12~13日ぐらいからですよね。そこから、え? なに? 爆発するの、しないの? となってきましたが、おれはそれはそれで、被災地に行くというのは決めていたので、うちの店で物資を集めたり、段取りの連絡を待ったり、支度をはじめていましたね。被災地には新潟から入って福島を通っていきましたが、放射能は大丈夫かな、とは思いましたよ。原発が爆発した4日後ぐらいだったし。
 
原発については、チェルノブイリのことなどは調べていましたが、見方がぜんぜん違っていました。いまだに収束できていないとか、帰れないんだとか、医学的な根拠はハッキリしていませんが、人体や動植物への放射能の影響とか、ロシア語のサイトでカメラマンが撮った写真を見たことはありました。だけど、シーベルトという言葉や数字は意識してこなかったし、漠然としていたんですが、それがいきなり日本で起こって、見方が変わりましたね。
 
Misao:震災から1年間は繰り返し宮古や三陸に通われたそうですが、その中で、なにか印象的だったり、心に残っている出来事はありますか?
 
KO:まず、南三陸町ですね。職員の方が最後まで避難のアナウンスをして、被災された防災庁舎以外に何も残っていなかったんですよ。本当にあれしか残っていない。その庁舎は、広島で言ったら原爆ドームみたいな感じなんだろうと思いますが、象徴として残しておきたいという地元の人たちもいると思うんですけど、思い出すからイヤだという人たちもいます。
 
避難所は心に残っていますね。1回目に行ったときは、すごく混乱していて、まだ家族が見つかっていないとか、そんな人たちだらけでした。次に3週間後ぐらいに行ったときは、そのときよりは少し落ち着いていましたが、それでもまだ、家族が見つかっていない人たちがいました。会話の中ではとにかく、「流された」という言葉がすごく印象的でした。だって、流されてなにもないんですから。なんとかしなきゃと思ったけど、おれ一人でなんとかできる問題でもないですよね。
 
そのうちに家が無事だった人たちと知り合ったので、震災から1か月~1か月半後に宅急便が再開してからは、支援物資の窓口になってくださいとお願いしました。おれがトラックで何度も運ぶよりも、全国からそこに直接送ってもらうほうが効率がいいと思ったんです。そのためにインフラの整理をして、「これはここに送ってください」などのメール連絡の対応をずっとしていました。寝て起きたら、もうずっとメールの対応をしていましたね。最初の1年間ぐらいは、それしかできなかったです。
 
現地と連絡を取り合いながら「いま、どこどこの何々さんから、こういうものが行きます」という感じの、メール連絡の業務を延々としていました。支援物資の中には古着みたいなものが入っていたり「なんだ、これは?」みたいなものもあったり、いろいろありつつも、1件、1件、全部処理していました。1年ぐらい経ってから、仮設が少しずつ出来はじめましたが、長い人は1年半ぐらい入れなかったので、物資のやりとりの作業を2年近くやったかもしれませんね。おれ、ライブのとき以外は、ほとんど家から出られなかったですもん。
 
Misao:いや…、それは本当に大変な作業だったと思います。
 
 

ー北海道反原発連合ー 
 
Misao:KOさんはそれに加えて、2012年夏には、北海道反原発連合を立ち上げて、道庁前の金曜の抗議を始められましたよね。2012年の6月頃から私たちが主催の官邸前抗議がピークに差し掛かり、早々に連帯の行動を札幌で開始されました。当時、共通の知人を通じてKOさんから、「反原発連合」という名称を使っていいかどうか、連絡をいただいたことを覚えています。2015年には、さようなら原発の札幌集会に参加するために週末に札幌に行ったんですが、そのときにようやく、うちのメンバー何人かで、道庁前抗議に参加させていただきました。
 
KO:なんていうんだろう。ああいう運動って、要は頭がつぶされていくじゃないですか。だから、おれを発起人とか代表とかとは絶対に言わないでくれということで、「呼びかけ人」という形にして、だれがここを仕切っているかわからないようにしたかったんです。当時から共産党の人とか民主党の人とかも来ていましたね。
 
Misao:発案はKOさんだったわけですが、実際に道庁前抗議を始めるいきさつは?
 
KO:札幌で反原発のデモがあって、デモに参加した人たちと知り合ったんです。おれは街宣とかをやったことがなかったけど、「官邸前抗議に連帯して北電前で抗議をしたい」と話したんです。共産党系の人に「北電だと電力会社だから官邸前をイメージしてやるなら、道庁しかないでしょ」と言われて、おれは臨機応変でいいんじゃないと思ったけど、ずっと道庁前でやるということになりました。最初はワーッと集まってすごかったけど、それも2年間ぐらいかな。
 
おれは週末は、金・土・日とライブの遠征でいないことが多いんです。で、おれが現場に行けないことが続いている間に、元々いろいろな運動をしている共産党系の人と、原発事故から反原発の運動に入ったやつらとが一緒に活動する感じになってきました。それで、そっちでいろいろなことが決まっていくんですが、「KOさんどうですか?」と聞かれると、「おれはそこにいないから任せるよ」という風になっていくうちに、どんどん、なんて言うんだろう。少し歪みが出てきたというか。
 
Misao:なにか、具体的なことがあったのでしょうか?
 
KO:結局、いろいろなことで、おれがキレたんですよね。前から運動をしてきたやつらが、これまで何をやってきたかということが、付き合っていくうちにわかるじゃないですか。抗議やデモとかどこに行ってもメンツが一緒で。で、いろいろな決め事をしてくのにおれって協調性ないので結局…(笑)
 
Misao:ああ、北海道でもいろいろあったんですね。私たちも活動を続けていくうちに、特にピーク時の注目されているときには、本当にいろいろありました。なので、どういったことがあったのか、なんとなく想像ができるような気がします。
 
 
ー日の丸問題ー
 
KO:日の丸の旗のことで揉めたことがあったんですよね。道庁前の抗議に関しては、原発問題の1点の抗議だし、すごくオープンな場にしたかったので、イシューでいえば反原発以外の旗も、組合の旗もNGにしていたんです。最初は中核派とかも来て前進(中核派の会報)を配っていたんですが、帰らせていました。中核派のマジメそうな大学生が3~4人ぐらい来ていましたが、反原発のプラカードだけなら問題ないけど、年配の中核派は来るたびに会報みたいなもの配るので、帰らせていました。
 
で、あるとき、自称保守みたいなやつらが「反日」とか言ってきて揉めたんですよね。それで、おれは当然「ぶざけるな」ってキレて。そして、日の丸の小旗を50~60本買ってきて、サウンドデモの時にそれをバンド連中とかに持たせたんですよね(笑)。そうしたら、今度は抗議に参加していた年配の左翼活動家たちが「日の丸でおれたちを汚した」「日の丸がOKだとは聞いていなかった」と激怒して…。その後、会議室みたいなとこで話し合いもしましたが、あれも揉めましたね(笑)。
 
彼らは「なんで日の丸が上がるような場にしたんだ」「知っていたら参加しなかった」と、とにかくその一点張りで、ぜんぜん話にならなくて。実行委員の中にそれをたきつけて面白がる活動家みたいなやつがいたんで、おれが最初にそいつに怒ってしまって。結果、この人たちとは話が合わないし、2度と話をすることもないなとね。逆に右翼の連中の方が、話を聞こうとするんですよね。ああこれが本当の左翼の活動家なんだとわかったことは、おれにはよかったかなとは思いましたが。
 
Misao:ああ、ゴリゴリの左翼の人たちですね。日の丸問題は東京でも物議を醸していて、私たちは極端でなければ容認という方針だったんだけど、一部の左翼から相当攻撃されましたね。なので、KOさんの今のお話しもとても理解できます。私たちの主催のデモじゃないけど、日の丸の小旗を持って参加していた人がいて、その旗に噛みついた年配女性がいましたよ。他人の持っている日の丸の小旗を折っちゃった人がいたり。非常識ですよね。日の丸嫌いなのはいいし人それぞれだけど、極端なのはちょっと、私は無理ですね。
 
KO:その話し合いのときに、左翼活動家の年配男性に「ワールドカップとかで競技を応援するときに、日の丸振るのもダメなんですか?」と聞いたら「ダメだね、一切ダメ」の一点張り。一方で、年配女性はちょっと面白くて、「私は本当に日の丸が嫌いなの」とオーバーアクションで言うので、「そんなに嫌いなんだね。おれも『はだしのゲン』とか読んでいたから露骨にそういう人がいることは知っていたけど、世代も違うし、おれが思っているよりも、もっとあなた方にとっては大きなことなんだなね」と理解を示したら、「こんど日の丸OKにするときは事前に言ってほしい。私たちは参加しないから」と言ってくれて、いくらか折り合いはつきましたね。
 
Misao:日の丸問題の闇と溝は深いですよね。おそらく永遠に解決できない問題だと思うし、そのほかにも、左翼活動家とそうじゃない人たちの間には、埋められない溝があることを実感し続けています。
 
 

ー「なんで? 悪いの母親じゃん。なんであいつらが」ー
 
Misao:KOさん本人のことを質問したいと思いますが、社会貢献をしようという気持ちの根源に、たとえば生い立ちとか、そういったものからの影響はあるんですか?
 
KO:あるかもしれませんね。うちの親父が公務員で、ずっと福祉課で働いていたんですよ。チェルノブイリ原発の事故があった時には、泊原発の近くの支庁に勤めていたんですが、事故によって追い込まれた漁師や、それに関係する商店などの補償や生活保護を担当していたんです。俺に話してもわからないのに、仕事の話しをよくしてくれて。愚痴を聞いてほしかったのかもしれないけど。
 
Misao:KOさんはその頃まだ、子供ですよね?
 
KO:中学生でしたね。おれが小学生の時には児童福祉をやっていたんですが、公務員住宅と町営住宅が隣接しているんですが、そこにはすごい格差があって。例えば、町営にはネグレクトされていたり、片親で母ちゃんが飲み屋で働いているような家の子供がいたりして、差別的な見方をされていたんです。おれも「あの家には何もない」と貧乏をバカにするようなことを言うたびに、親父にすごく怒られました。おれは人の痛みがわからなくて、人の身も心も傷付けることになにも感じないような、本当にひどい子供だったんで、親父が本気でおれを施設に入れようかと悩んでいました。
 
その頃、おれは離島に住んでいたんですが、すごく印象に残っていることがあるんです。町営に住む、親が飲み屋で働いている友達兄弟がいたんですが、冬に金がなくてストーブを点けられなくて、寒くて、灰皿の上でなにか燃やしたらボヤになってしまって、消防車がきて問題になったんです。で、そいつらが児童相談所に入れらたんですが、親父がそこの子達を連れていったんです。「なんで? 悪いの母親じゃん。なんであいつらが」と言ったら、親父もすごい理不尽に思っているんだけど、あの子たちはあの親のところにいないほうがいいみたいなこと言っていましたね。うちの親父はおれと違ってすごくちゃんとした人なんですよ。その影響がたぶんあるんです。
 
Misao:いっぽうで、KOさんはお店もやっていますよね。これも誰かから影響が?
 
KO:おれが店を出したときに「うちは公務員が多くて商売の才覚がある家系じゃないのに、なんで?」と親父に言われたことがあって。確かに、親父たちはみんな公務員で、その子供たちは北大行ったやつは2~3人いるけど、あとは皆おれのような不良ばかりで。おれは単純にオヤジたちを見て、公務員になりたくないとガキのころから思っていたけど、考えてみたら、じいちゃん、ばあちゃんのところにずっといたから、その影響があると思うんですよね。
 
おばあちゃんが田舎の小さい商店をやっていて、カメラマンのおじいちゃんは隣で写真館をやっていたんです。2人とも商売人だったんですね。おれは日曜日とか夏休み、冬休みとかになると、ずっとじいちゃん、ばあちゃんのところに行って帰らないんですよ。家にいるより楽しいから。個性的で自由人のじいちゃん、ばあちゃんの影響を受けつつ、公務員でちゃんとした親父を見ながら育って、たぶん、全部がおれにミックスされて入っている。おれがライブハウス経営しているとかレーベルやっているとかバンドやっているとか、根っこで全部つながっていると思うんですよね。
 
おれは親からもらった小遣いをすぐに使ってしまうような子供だったんで、小遣いを廃止されたんだけど、おばあちゃんがなにも言わずそっとくれていたんです。で、もらうとオヤジが、例えば100円を指して「この100円の意味がわかるか? 50円で仕入れた物を100円で売っているから、100円で売れたからといって100円が儲けじゃないんだぞ」と教えてくれました。そのときは意味がわからなかったんですが、大人になって自分で商売をやるようになってから、あのとき言われたことはこれか、と妙に覚えていて。何回も言われたからだと思いますけど。
 
 
ーアイヌー
 
KO:あとはおれは日高出身なんですが、日高ってアイヌの人がたくさん暮らしているんですよ。
 
Misao:KOさんは差別撤廃の活動もされていますよね。北海道在住ですし、アイヌのことは聞こうと思っていたんですよ。
 
KO:さっき公務員住宅と町営住宅が隣接していると言いましたが、特にアイヌの人が多い地域だったんですね。おれのような公務員の子や金のある家の子は、おもちゃなんか買ってもらって家の中でおとなしく遊んでいたけど、おれはやんちゃだし外で遊んでいたので、必然的に町営に住むアイヌのお兄ちゃん、お姉ちゃんと一緒にいたんですね。一緒に悪いことばかりしていたんだけど、物心ついたときからそういう環境だけど自覚はなくて、そこから外れてみて初めて、おれはアイヌのコミュニティーのまっただ中で育ったんだなと気づいたんです。
 
Misao:人種差別を意識するようになったのは、その頃からですか?
 
KO:アイヌ差別よりも、黒人差別を意識したのが先でしたね。おれ、パブリックエネミーがすごく好きだったりしたんですが、黒人ラッパーのアイス-Tの本を読んで、すごく影響を受けたんですね。「あれ? これはおれたちで言ったらアイヌのことじゃない」と思ってアイヌ差別なんかの本を読んだのは、そこから何年も経ってからでしたね。けど、そういう本は黒人ラッパーの本と違って、部外者の人が書いた物が多いじゃないですか。アイヌも地域によって違っていて、日高と旭川、オホーツク側のアイヌは少し違うんですけど、地元にいないとわからないことってあるよね。
 
うちの弟の嫁の一族がアイヌなんで、弟に「いまでもアイヌ差別はあるの?」と聞いたら、「ぜんぜんあるよ」と。昔みたいに露骨なイジメやイヤがらせじゃなくて、見えないような線を引かれているように感じるみたいです。札幌にいるアイヌの友達は、「人前でアイヌの話を本当に絶対に言わないで」と言うんだよね。「おまえ、アイヌだから顔の彫りが深いよね」とか言うと「本当に言わないでくれ」と。おれだったらバリバリ「おれはアイヌです」と言うけどな。
 
Misao:それは誇りをもって言うべきだと思うし、私は世界中の先住民族が好きなので、この前もベトナムに行ったんですが、ベトナムにもいろんな先住民族ががいて、憧れますよね。自分も過去を手繰ればどこかの民族の混血の混血の混血なんでしょうけど、これとわかるような先住民になりたいぐらいの憧れがあるんですよね。アイヌもそうだけど、伝統的な神話や風習や祭祀や衣装があって、本当に素晴らしくて憧れますよ。アイデンティティがはっきりしていて。アイヌだけではないけど、差別の対象にされたために、自尊心を失いかけている状況は狂っているとしか言えません。
 
KO:そうなんです。おれはアイヌに生まれたかったな、ぐらいに思っていましたけどね。でも、おれが育った日高でも、アイヌ差別にはなんの理由もないんですよ。アイヌというだけで差別される。おれももちろん子供のころは「アイヌ! アイヌ!」みたいなことをふざけて言ったこともあって、親父にめちゃめちゃ怒られたんですけどね。人間って、おれだけかもしれないけど、潜在的に差別意識というか、物を上に見たり下に見たりする部分を持っているんじゃないですか。全員じゃないかもしれないけど、人間は、大なり小なり、差別意識を持っていると思うんですよね。
 
 

ー潜在的差別意識ー 
 
KO:上を見るということは必ず下があるわけだから、まったくそういうのはないよと言うやつでも、あるんですよ、たぶん。差別意識のことを考えたときに、それこそアイス-Tの本からヒントを得たんですね。「そんな差別はおれはしないと綺麗事を言っても、たとえば自分の娘がいきなり黒人の彼氏を連れてきたら、おまえならどうする?」みたいなことが書いてあったんですよ。その頃は自分の子供がまだ小さかったから考えてみたんですが、おれなら結構おもしろいなと思うかな、と思ったんですが。で、いろんなやつに聞いてみたんですよ。よく褒める意味で「あの人、外人ぽいよね」というけど、その外人って何人のことなのかと。
 
突っ込んで聞くと、それってみんな白人のことなんですよね。で、実験というか、一時期いろんなやつに言っていた時期があったんですが、女の子だととくにわかりやすいんだけど、「外人ぽくてかわいいよね」と言うと喜ぶんですが、その後、例えばアジアの国々の名前とか出すと嫌がるんです。それって俺は潜在的な差別意識だと思っていて、日本人だけかもしれないけど、そういう意識を持っていても気づかないんだなと。顔の彫りが深いと褒められても、白人みたいだったら嬉しくて、欧米人以外だったらガッカリするみたいな日本人がかなり多いんじゃないかな。日本人が特にだと思うんですけど、優越主義というか。それが根源にあるというか、それは何でかといったら、わからないんですよ。
 
Misao:この傾向について私は、西洋に対する劣等感、コンプレックスの裏返しだと思うんです。敗戦以降、GHQが入ってきて西洋が凄い、偉いと広く刷り込まれて、潜在的な劣等意識が育まれてしまったのではないかと。もっとも、海外とかいろいろなところに行ったり住んだりしてみれば、そういうのも違うなと実感としてわかってくると思うし、日本の歴史的、文化的凄さもわかってくると思うんです。あと、育った環境とか性格や受けた教育で、意識の差は出てくるかもしれませんね。
 
KO:そういうのもあるかもしれませんね。で、おれはそれがあるから、いまの安倍政権みたいな嫌韓を煽るみたいなのに、簡単に乗ってしまうやつらがいると思うんですよね。韓国はとか、北朝鮮はとか、中国はとかあるじゃないですか。おれは、それらの根源はその意識だと思っています。テレビのちょっとしたニュース一発で、乗っかる日本人ってけっこういるので。一方で、沖縄の米軍基地のヘリの墜落事故があっても、話題にもしないじゃないですか。おれは、日本はアメリカから独立したほうがいいと思っているんですけど。
 
Misao:私も、日米安保は白紙撤回だと思っています。
 
KO:日本に日本人が入れない土地があるということがおかしいでしょ。しかも、それに対して右翼は「中国がなんだかんだ」と言っていて、おまえらはアメリカの味方をしているのかという。赤尾敏さんが街宣をやっていたときは、日の丸と星条旗を立ててやっていたけど、あのころはソ連とアメリカの冷戦の時代だったからで、いまの親米右翼は、ああいうのとは質が違いますもんね。
 
Misao:いまの街宣右翼の多くの人たちは、あまり考えずにスローガンだけ言って、結果、親米みたいになっていて、逆に左翼の人たちのほうが反米になっていたりしますよね。まあ、時代も世界の情勢も変わってきていて、もはや左右で語ることやイデオロギーの既存概念に限界が来ているということだと思います。
 
KO:当時は子供だったから全然わからなかったけど、後々30~40代になってから考えたときに、あそこらへんから止まっているというか壊れてしまったと思いましたね。きっかけ的には、ソ連崩壊のときから日本人は思考停止してしまっているんじゃないかな。でもやっぱり敵が必要だから、それからは北朝鮮の拉致問題をクローズアップしたりして。拉致問題の話も見ていて思うんですが、いろいろ掘り下げていくと、問題の扱い方がおかしいいじゃないですか。
 
 
ー 自分も変わっていくー
 
Misao:いろいろなことをやってきたKOさんですが、生きていく上で、なにかやる上で意識したり、大事にしたりしていることはなんでしょうか?
 
KO:おれの人生哲学みたいなのは、とりあえずやってみる、ということです。人との関係とか、スポーツとか習い事なんかもすべて。格闘技をやっているんですが、SLANGを始めて10年目におれのパートがギターからボーカルになったので、指とかちょっと怪我しても大丈夫と思って、空手を習い始めたんです、結果、途中でやめてしまったんですけど。そこから、キックボクシングやったり、筋トレとか、体力づくりみたいな感じでやってきたんですけど、なんでもやってみようと思ったら、なんでもやってみる、実践しています。
 
もうすぐ50歳になるんですけど、45ぐらいのときに考えが変わったんですね。それまでは「SLANG=おれ」、おれはSLANGそのものだと。まわりもみんなそう見るし、そう言うんだけど、それがなんか違うと思うようになってきて。それまで、おれはバンドのメンバーのことを信頼してなくて、独りよがりだったんです。パッと首にしたりしたし。ただ、いまのメンバーと出会って一緒にやるようになったときに、そいつらがあまりにもちゃんとしてくれるから、なんかこう、マズイと思って。自分も変わらないといけないと思って、変わるってなんだろうと、すごく考えるようになったんです。
 
それまではSLANGこそがおれの人生だと思っていたし、いまでも、おれがいなければSLANGじゃないというのはあるけど、「SLANGをやっているおれ」という人間にもっと目がいくようになったんです。「おれという人間が歌詞を書いている」「おれという人間が曲を作っている」という、すごい当たり前のことにハッとした時期があったんです。そのときに、剣道、柔道、空手道、合気道とか書道とか茶道とか、「道」が付くことをちゃんとやりたい、昔、空手をやっていたときも中途半端で止めたので黒帯がほしいと思って、空手の世界に戻りました。なんでも、直感的にすぐにパッとやるタイプなので。
 
Misao:40代半ばで空手を再開なんて、なかなかトライできないように思います。
 
KO:普通はジジイになって、わざわざ格闘技とかはじめないですよね。おれは、やろうと思ったことはやってみて、いったん自分の中に入れたいんですよね。なんでもそうだけど、これはおれにしかできないと直感的に思ったことは、まずやってみるんです。そのあとで、人に勧めたりする。それが、はたから見たらおれの哲学だったり、生き方だと思われているかもしれませんね。でも、そんなに考えてはいなくて、考える前にやっちゃうみたいな感じですね。だけど、これをやろうと思ったら、何年かかっても必ずやるという信念は、自分の中に持っています。
 
Misao:やろうと思ったことは、周囲に話したりしますか?
 
KO:言わずにやるということのほうが多いかもしれません。おれは、あれをやると言って自分を追い込むのも、あまり好きじゃないんですよね。やるのがイヤになったりするしね。言わずにはじめるので「最近なにをやっているの?」と聞かれて、「実はさ」と話すことが多いですね。なんでも試しながらやっているから、人に言えるようになるまで少し時間がかかるんですよね。最近では、ウエイトリフティングですね。元日本チャンピオンの70歳ぐらいの人に習っているんですが、地味に誰にも言わないで、7月ぐらいからはじめたんです。
 
重りを一気にドンと持ち上げるウエイトリフティングの種目のひとつなんだけど、ジャンプ力とか前進力、突進力、瞬発力の強化のために、陸上選手なんかもやっているレーニングなんです。頻繁に通って練習しているんですけど、それを人に説明してもわかってもらえないし、50歳のおっさんがなんのためにやっているの? と言われるじゃないですか。このトレーニングも空手も、ほかにやってるブラジリアン柔術も、バンドのライブでも体幹を使うから役に立つし、いいこと尽くしじゃんと思うんだけど、「まだ、そんなことを考えているの?」みたいなこと言われたり。逆におれからしたら、「おまえはそのまま死んでいくつもりなの?」ですよ。40代後半になると結構、そういう人が多くなるじゃないですか。
 
 

ー死についてー
 
Misao:あきらめと妥協、っていうやつですかね。
 
KO:男も女も色々あきらめちゃって、それはそれで別にいいけど、それがおまえの人生なの? ただ消費しているだけじゃん、と思うことがありますね。そういう生き方に魅力を感じない。一生懸命働いてマイホームを手に入れて、うちのオヤジもそういうタイプだし、おれはそんな親に「お疲れ様でした」というけどね。それはそれで立派だし、別に悪い意味でも嫌味でもなんでもなくて、そういう生き方に興味、魅力を感じないんですよね。同時に、このぐらいの年になってくると、死を意識するようになってくるじゃないですか。
 
Misao:自分の死のイメージが具体化してきますよね。昔は私もバンドをやったりしていましたが、この年代でパンクを経験した人間の多くは、自分は30まで生きないだろうと思うじゃないですか。でも実際には30を超えてしまって、人間いつ死ぬかわからないとは言っても、30代ではまだ自分の死のイメージは漠然としている。でも40とかを超えてくると、もっと具体化して考えるようになってきますよね。人生、よくてあと20~30年、下手したら10年ないかもしれないなとか。
 
KO:ほんと、最近ですよ。50歳が間近になって、すごく死が具体的になってきて。で、SLANGは今年で31周年なんですが、えっ? あと30年、SLANGは絶対できないなと思って。そうしたら、またそこでもいろいろ考えるようになって。1年前ぐらいから、すごく考え込んじゃって。実はこの1年ぐらい、空手に行ってなかったんですよ。やり方に不満があったりする部分もあったんですが、その道の60~70歳の人たちを見たときに、いや、おれはあんたたちみたいになりたいわけじゃないと思って。本物の武道家を探しているんです。強さというか、武道家のたたずまいってすごく独特じゃないですか。そういう人に憧れるんです。
 
道の話に戻るんですけど、SLANGもそうなんですよ。瞬発力が命のハードコア・バンドなので、何年か前から衰えも感じているし、これが60歳、70歳になって、何年か前のそれを保っていられるわけがない。瞬発力頼みだったりするから、これは無理だよな、と思って。楽器の演奏と違ってボーカルは生身だからね。再結成のビッグバンドのライブを観ても、ものすごいボーカルリストでも、たとえばジューダス・プリーストを観たんですけど、あんなすごい人でも、さすがにこれぐらいは落ちるんだなと。もちろん自分よりはるかにすごいんだけど、やっぱり声とかは絶対に落ちるんだなと思って。老いですよね。自分が老いる、要は死に向っていくときに、いろいろなことが自分の中にリンクして、これは違う、いやこれは違うみたいなことを考えています。
 
死ぬのは怖いし、死にたくはないんだけど、絶対に死ぬじゃないですか。死んだ先に何があるかはわからないし、おれはちょっと不思議な体験もしているので、死後の世界とか信じているところもあって、でも信じていないようでもあって。けど、おれはここを、スパーッと突っ切りたいんですよ。「死」というものを。そのときにはもちろん一番に、まわりの人に感謝や大事なことは伝えていきたいけど、肉体を捨てるという部分に関しては、これまでも自分の本質というか、自分の本質がなにかということを探し続けてきたように、それを探しながら、死んでいくんだろうなと思って。だから、さっきの「あきらめ」というのは、その部分の否定になるんですね。人生マックスのスピードで生きたいというのは、精神的で意識的な問題なんです。「眠るように死んだよ、あの人は」と言われるかもしれないけど、「イヤ違うんだよ、わかってないんだよ」という感じですかね。
 
 
(2019年10月5日 東京都新宿区にて)
 
 
 
KO <プロフィール>
1970年3月12日生まれ。
1988年に札幌でSLANGを結成。1995年にはライブハウスKLUB COUNTER ACTION創立。パンク・ハードコアなどを中心にリリースするレーベルSTRAIGHT UP RECORDSの創立者でもあり、海外ツアー/海外リリースなど、積極的な活動を続けるハードコアシーンのアイコン的存在。東日本大震災以降は、NBC作戦(なまら•物資•直送作戦)と称し支援活動を開始し現在もなお仮設住宅への支援を続けている。
 
【SLANG】http://www.slang1988.com/index2.html
 


<予告>NO NUKES! human chains vol.13
このインタビュー・シリーズでは、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。KOさんからは、田原”104”洋さん(MOBSTYLES.&MOSH プロデューサー)をご紹介いただきました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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