NO NUKES PRESS web Vol.014(2019/02/21)

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NO NUKES PRESS web Vol.014(2019/02/21)
 
Opinion:この運動に何の意味があるのか
 
寄稿:小熊英二(歴史社会学者)
 
3.11福島原発事故から8年。世間では事故の記憶が薄れる中、3月末には開始から7周年を迎える金曜官邸前抗議では、いまだに様々な人々が脱原発を訴えています。社会運動を近くから見つめそこにいる人々と交流してきた、小熊英二さんにご寄稿いただきました。


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2011年3月11日から、8年がすぎた。ここで、反原発運動の経過と状況をふりかえってみたい。
 
 
– 震災後の経緯 –
 
思い起こすなら、原発事故からしばらくは、抗議運動どころではなかった。しかし数週間経つうちに、政党や労組などと無関係だった多くの小グループが、独自の活動を始めた。それが2012年夏には一つのピークを迎え、官邸前に約20万人が集まった。
 
この経過のなかで私が思ったのは、これは「勝てる運動」だということだった。
 
まず原子力産業がピークをすぎ、他国では再生可能エネルギーの低コスト化と普及が進んでいた。2011年当時の日本では、「原発をやめるか、経済を優先するか」といった古びた議論が横行していたが、すでに原発に経済性はなくなりつつあった。日本の原発がまだ増設ペースだった1980年代ならともかく、2011年におきた事故は、原子力産業の致命傷になるはずだと考えた。この考えは、現在でも変わらない。
 
さらにこの運動は、民意の支持があった。事故直後の2011年5月の世論調査では、原子力の利用については肯定が多数だったものの、新設・増設には反対が約7割に達した。2012年になると、原発が全部止まってしまったが、それでも電力供給に問題はなかった。世論調査で再稼働に反対が6割を超えたのはその前後からで、以後この数字はほぼ変わらない。
 
もちろん、自己の衝撃は日が経つにつれ薄れる。それは基本的にはいいことだ。私は原発事故など二度と起きてもらいたくないし、放射能に緊張感を強いられる生活もしたくない。自分がそうなのだから、他人にもそれを要求したいとは思わない。だから、事故直後の緊張感が薄れるのは、基本的にはいいことだと思っている。
 
事故の衝撃は薄れたが、それと反比例するように、原発に経済性がないことは知れわたった。原発を止めれば江戸時代に逆戻りだ、といった古色蒼然とした言説も消えていった。原発に否定的な世論が一定数から減らないのは、この互いに反比例する異なる効果が、相乗したものだろう。
 
2012年だったと思うが、「この抗議を、いつまで続ければいいんでしょうね」と聞かれたことがある。そのときは、「5年くらいねばっていれば、原子力産業も落ち目だから、あきらめて別の仕事を探し始めるだろうよ」と言ったのを覚えている。
 
2012年から13年当時の経済誌や国際情報誌に載っていた予測では、規制委員会の審査状況からいって、2014年までに再稼働するのは西日本の14基だけだろうとされていた。私は、この再稼働をすべて止めるのは困難だとしても、それをできるだけ遅らせれば、原子力産業の低落と方向転換を促進するだろうと考えていた。経済の流れに逆行した運動が勝つのは困難だが、経済の流れを後押しする運動はたいてい勝つ。

基本的に、事態は私の予想と大きくは違わなかった。少々予想と違ったのは、原子力産業の往生際が思った以上に悪かったのと、各地の再稼働が思った以上に遅れたことだった。結果として5年を超えた「がまん比べ」の様相を呈しているが、最後には勝つ運動だという確信は一度も揺らいだことがない。民意の支持のある運動が、落ち目の産業を相手にして、負けるはずがないからである。
 
 
– 運動の効果 –
 
官邸前の抗議運動の参加者などにときどき聞かれるのは、運動にどんな効果があるのか、という問いだ。具体的な政策を提言しているわけでもなく、官邸前で同じスローガンをくりかえしていることに、何の意味があるのかと。
 
まず前提として、官邸前抗議は抗議活動であって、政策立案活動ではない。この種の抗議活動の役割は、民意を可視化することである。
 
民意というものは、目に見えない。見えない民意を可視化する方法として、たとえば世論調査や、あるいは選挙がある。選挙結果や内閣支持率が重視されるのは、それが民意を可視化していると考えられているからだ。抗議活動も、それらと並んで、民意を可視化する方法の一つである。
 
選挙や世論調査があれば、抗議活動などいらないではないか、という意見に私は与しない。選挙や世論調査は、どうやっても民意を不完全にしか可視化しない。選挙にはさまざまな制度があるが、それぞれに歪みや限界が指摘されている。世論調査も、回収率6割程度でしかない数千人の抽出調査から、一億三千万人の民意を推計しているにすぎない。どちらも不完全な方法なので、これらは併用されるのである。もし選挙が民意を可視化する完全な方法だったなら、世論調査など不要だろう。
 
もちろん抗議活動も、不完全で偏りのある方法の一つにすぎない。だがそもそも、社会全体の民意を完全に可視化する完璧な方法など、ありはしないのだ。それぞれに不完全で偏りのある方法を、併用するしかない。抗議活動も、その一つとして尊重されるべきだ。
 
抗議活動とは、いわば旗を立てる行為である。はためく旗が威厳を持つのは、大気の流れというみえないものを、可視化しているからだ。物体としての旗それじたいに、力があるわけではない。それと同様に、抗議活動の主催団体そのものや、そこで行われる行為そのものに、力があるわけではない。そこに政治的効果が生まれるのは、抗議の場にいない人びとまでを含めて、社会全体を代表しているときである。
 
その場合、数は必ずしも重要ではない。たとえ100万人を集めても、それを数としてだけみるならば、比例代表制で議員一人を当選させる程度でしかない。逆に数人の行動でも、それが民意を代表しているとみなされたときの効果は計りしれない。アメリカの公民権運動の発火点となったのは、たった一人の黒人女性が白人専用席に居座ったことだった。
 
もちろん、その女性が著名人であったわけでも、座った行為そのものに破壊力があったわけでもない。数を集めればいいと考えたり、有名人が来ればいいと考えたり、あるいは殺傷効果がある武器を使えばいいと考えたりする勘違いが生じるのは、その点を誤解しているからである。
 
 
– 運動にいま望むこと –
 
抗議活動は、それが社会全体の民意を可視化しているとみなされたときに、大きな効果をもつ。単に「お仲間」を集めて相手を恫喝しているだけなら、そうした効果は生じない。似たような人ばかり集まっている抗議活動に説得力がないのは、そのためである。
 
私は2011年以降の脱原発運動の出現をみていて、これは過去の運動と異なると思っていた。私がそれまでみた多くの運動は、過去に存在した政治的対立や、過去に培われた心理的習慣をなぞったものだった。それは、あらかじめ政治的立場を同じくし、あらかじめ運動内で「常識」になっている知識を持っていなければ、入っていけない世界だった。
 
ところが震災後の反原発運動は、直接的な衝撃や恐怖や怒りから生まれたものだった。だからこそ当初、この運動は過去の政治的枠組みとは無関係だった。過去の経緯など知らなくても、ほとんど知識がなくても入っていけた。2011年4月の高円寺のデモでスピーチに立った青年が、おせじにも流暢とはいえない調子で「僕は原発に賛成です。でもこの状況はひどい」といった趣旨のことを述べ、それを周囲が「いろいろな人がいていいんだ」と受け止めていたことを覚えている。
 
ところが人間は、数年も経つと、狭い世界で「経緯」や「立場」や「常識」を作りだしてしまう。そうなると、そうした「経緯」や「常識」を共有する人だけが集まるようになり、それぞれの「立場」に分かれてしまう。
 
そうなってしまった運動は、誰もが入っていけるものではなくなり、活力を失う。活力がなくなるだけでなく、社会全体の民意を可視化しているともみなされなくなる。
 
そこで焦りが生じると、殺傷効果のある武器を使うとか、過激な言辞に頼るとか、異論を一方的に封じるといった、勘違いがおこりやすい。そうなると、運動はますます「仲間うち」だけのものとなり、民意の可視化とはみなされなくなって、効果が減退するという悪循環に陥る。
 
社会学者の樋口直人らの調査によると、2012年と2015年の抗議活動には関東圏の人口のうち約2%が参加した。2012年以降、官邸前抗議の場を継続して維持していた積み重ねは、何か事案があると官邸前に集まるという政治文化を定着させた。2013年冬の特定秘密保護法、2015年夏の安保法制、2018年春の「森友・加計」問題、2018年夏のLGBT差別発言などへの一連の抗議活動は、その下地なしにはありえなかった。そうした意味で、首都圏反原発連合の官邸前抗議が果たしてきた貢献は大きい。
 
ただ近年は、この運動が当初持っていた雰囲気が、薄れていることを懸念している。運動は主催団体がすべてをコントロールしているものではなく、参加者すべてが作りだしているものだ。運動の原点を思いおこし、なぜこの運動が効果を持ったのか、考えてもらいたい。それは結果的に、運動をより効果的なものにする省察になるはずだ。
 
 
 
小熊英二<プロフィール>
東京大学総合文化研究科博士課程修了。慶應大学総合政策学部教授。主要著書に『単一民族神話の起源』『<日本人>の境界』『<民主>と<愛国>』『1968』『社会を変えるには』『生きて帰ってきた男』など。
 
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