NO NUKES PRESS web Vol.036(2020/12/24)

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NO NUKES PRESS web Vol.036(2020/12/24)
 
Opinion:原発事故から10年 - 反原連が変えた日本の政治風景
 
寄稿:五野井郁夫(政治学者/国際政治学者)
 
3.11福島原発事故後、社会運動は変容を遂げてきました。活動の現場やそこにいる人々にコミットし、運動を最も的確に理解している学者のひとりである、五野井郁夫さんにご寄稿いただきました。
 

【NO NUKES PRESS web Vol.036(2020/12/24)】Opinion:原発事故から10年 – 反原連が変えた日本の政治風景 ー 寄稿:五野井郁夫 @gonoi(政治学者/国際政治学者) https://pic.twitter.com/PWwKkTWMbI http://coalitionagainstnukes.jp/?p=14484

 
 

2021年現在、人々は何かあったとき、官邸前に集まることが当たり前の風景になっている。政治に対して物を言わざるを得ないとき、社会に向けて訴えたいとき、われわれは官邸前に集まるのだ。この、いまではごく普通になっている官邸前という公共空間の風景は、なにも自然にできあがってきたわけではない。その場を作ってきた人たちがいる。そして、その場を支えてきた人たちがいる。政府に巨額の札束を積むロビー活動にもかかわらず、さほど原発が再稼働できない風景も当たり前になっているが、この風景も自然にできあがったわけではない。容易に原発をすべて再稼働できない風景を作り、再稼働させないように日々努力してきた人たちがいる。その人たちは、毎週金曜日に官邸前に集まる。
 
反原発をめぐるデモや抗議行動は原発事故以前、つまり反原連が抗議の手法を刷新し民主化するまでは、どこか日常から遠い誰か怖い人がやっているものというイメージがあったことをわれわれは忘れている。それくらいごく普通なのだ。
 
2011年以降、毎週金曜日の首相官邸前や国会正門前は、日本での参加民主主義の名所になっている。同様に日本各地の駅前や広場、目抜き通りで金曜の夜や毎週末ごとにデモや抗議行動を目にするようになった。人々はまず頭数となって他の人々と横に繋がり、自分の質をしだいに数へと変換する参加民主主義を実践しはじめたのである。
 
だからこそ数に対する恐れを感じた与党政治家も、群れをなし数となった人々の反原発の声を意識せざるを得なくなった。そのさい石破茂氏などのいまではリベラル寄りとされる政治家が反原発運動に対して行ったことは、デモを「テロ」と揶揄することで人々の大衆行動にネガティブなイメージを帯びさせようとする試みだ。だが、そうした謀略に対して人々がめげることなく毎週官邸前に集まり続けて場を維持したことによって、人々が数になることに対する政治家の取り締まりの試みは現在まで失敗し続けている。それは、コロナ禍のなかでもソーシャル・ディスタンスを保ちつつ現在でも首相官邸前や国会正門前、そして日本中で起きているデモや抗議行動のはじまりとなった2011年以降の反原発運動が、その数はもとより、参加者の幅と参加の仕方も過去の運動と違い画期的だったからである。参加者の自発性と多様さ、そしてその数の多さにもかかわらず、非暴力を前面に掲げて、きわめて平和裡に整然とした抗議行動を行うことで、政治家や一部メディアからの揚げ足取りを回避し、警察の協力も各場面で取り付けてきた。だからこそ、官邸前という公共空間がいまはわれわれが抗議をするときに当たり前の場所として存在しているのだ。なお、デモを見物に来る人も多く見受けられ、デモの「クラウド化」や「観光化」、「カジュアル化」とでもいうべき現象もその過程で起きるようになり、いまでは普通になっている。
 
 
では、日本におけるデモにはどのようなものがあったのだろうか。こんにちまでの非暴力デモの萌芽は、すでに60年安保時の小林トミや高畠道敏らによる「声なき声の会」、ベトナム戦争の反戦運動時の小田実や鶴見俊輔の「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)のような抗議形式がその遠景にある。これらを継受したアクティビストらが、徹底的な非暴力を掲げ、デモの名称も変えるなどして人々が参加しやすい工夫を重ねてきた。
 
2000年代のデモの主なものとしては、9.11以後のピースウォークとイラク反戦のサウンドデモが挙げられる。これら新たなデモのレパートリーが日本でも登場し、以後、日本のデモの形式として一般化していく。これらはいずれもかつてメディアが作り上げたデモ=暴力という紋切り型のイメージや、これまでのような階層的・垂直的な組織構造とも異なる、きわめて水平的でフラットな人間関係に基づくゆるやかな連帯へと変貌を遂げた。このようにして、2000年代初頭のイラク戦争を経てデモのイメージが暴力から日常的なものへと転換し、「院外」の政治たる参加民主主義の表現として復活しつつあった。
 
これまでの日本と世界のデモの変容を受けて、2012年以降の反原発デモと官邸前抗議行動がはじまる。そして反原連のミームは反ヘイト運動、そしてSEALDsや総がかり行動による15年安保、プロテストレイヴ、そしてコロナ禍で与党自民党政府から10万円給付などを引き出した数々のオンライン・アクティビズムへと受け継がれていくのだが、これほどまでに多くの支持者と参加者を得て数となれているのはなぜか。
 
日本のデモや抗議行動には、中東・北アフリカの民主化運動「アラブの春」と同様、フェイスブックやツイッター、ラインなどのアプリケーションに、多様な世代と属性の人が集まって、市民が自ら情報発信することによる新たな社会的紐帯や価値を生むソーシャルメディア活用の特性が見て取れる。それぞれ持ち得ている知識や情報、画像や映像、地図などをウェブ上にアップロードし参加者同士で共有するという「社会運動のクラウド化」が民主主義への参加の敷居を下げているのが、こんにちまでの特徴だ。これをもっとも効果的に活用して参加の敷居を下げ、官邸前と国会前で定期的に10万人規模の動員と、憲政史上前例にない首相との直接対話や会見を行ってみせたのが2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を契機として人々が立ちあがり、2021年現在まで毎週金曜日に行われてきた参加民主主義の一形態たる金曜官邸前抗議である。
 
原発をめぐるアクションを足早に振り返ってみよう。原発事故直後の2011年3月18日には東京電力本店前での抗議行動「東電前アクション」が開始された。これがインターネットのUstreamで生中継され、人々が視聴し、2011年3月27日には、原発事故後初めての反原発デモが日本で開始された。銀座から東京電力本店前を通り、日比谷公園にゴールするコースで、特定の組織に属さない1200人ほどが、怒りの声を上げはじめた。その後、同アクションは経済産業省内の原子力安全・保安院への抗議を行い、かれらの非暴力直接行動はニューヨークタイムズ、アルジャジーラ、CNN、APF通信などを通じて世界中で報道された。
 
同年4月からほぼ毎月に一度のペースで、素人の乱による「原発やめろデモ!!!!」が高円寺や銀座、新宿で開催され、新宿駅東口のアルタ前がデモをする人びとで溢れかえる現象が同年6月11日、じつに数十年ぶりに起こった。アルタ前広場は一時的に「原発やめろ広場」となったのである。震災から6ヶ月後の9月11日、新宿でのデモ後のアルタ前広場では柄谷行人が「デモができる社会」という演説を行った。さらにこの流れがのちの大江健三郎や澤地久枝、瀬戸内寂聴らを呼びかけ人とする「さようなら原発1000万人アクション」へと繋がってゆくことになる。
 
2011年末にはツイッターを介した脱原発デモグループTwitNoNukes編で『デモいこ!』(河出書房新社)のような、警察へのデモ申請の仕方から横断幕の作り方までを説明したHow-To本も出版された。TwitNoNukesはコンビニのネットプリントで番号を入力すると、簡単にプラカードなどのプリントを可能にし、人びとがデモや抗議行動に参加しやすい工夫も行なった。そして野間易通『金曜官邸前抗議』やミサオ・レッドウルフ『直接行動の力「首相官邸前抗議」』(クレヨンハウス)等でその知恵は、今度は手に取れる文字媒体を通じて人々にシェアされるようになる。こうした実践知(フロネーシス)の伝播が、15年安保で「安倍政治を許さない」等のプラカードを普及させるアイデアが考案されるきっかけを作り、抗議行動という直接民主主義の政治参加の方途をより身近なものにした。
 
時間軸を戻そう。新宿でデモが盛り上がっていた2011年9月11日には、経産省を1300名もの人びとが「ヒューマンチェーン」で取り囲み、経産省の片隅にある公共のスペースにひとつのテントが設営された。経産省前の路上は、都市の中心に公的な広場を具備していない日本の都市空間のなかで、ちょうど公共空間としての性質を帯びている。原子力安全・保安院を抱える省庁の前の公共空間に、脱原発の旗が立ったのである。こうして占拠というかたちで「経産省前テントひろば」がはじまった。
 
さらに同年9月には、脱原発を目指す団体のネットワークである首都圏反原発連合が、首都圏でデモなどをやっていた各グループと個人が力をあわせることで立ち上がり、当初は300人ほどで「首相官邸前抗議」が開始されたのだった。2012年6月から7月には官邸前抗議にシンパシーをもつ者たちによるテレビ側局への説得が功を奏してテレビで報道されたこともあり参加者が爆発的に増えた。そしてじつに20万人もが官邸前に集まり、可視化された声という数の力を梃子にして野田首相(当時)に非暴力直接行動で再稼働反対を突きつけた。その後、首相にも抗議者たちが政府庁舎のなかで面会して直談判をしたことはまだ記憶に新しい。このような官邸側という政府権力と市民の直接対話は日本政治史上で初めてであり、市民が政治を変えるための新たな回路を作り上げたのだった。
 
当時まだ官邸前抗議が合法か否かはっきりせず逡巡していた人々に対しては、研究者らが警視庁に路上解放の合法性について確認し、日本国憲法21条「表現の自由」に保障されている権利たる「抗議要請行動」である旨を、TBSラジオなどのパブリックな媒体で公表しはじめた。これによって現在の、届け出がなくても路上で通路さえ作れば抗議ができることが当たり前になっていった。また警察の過剰警備に反対すべく、弁護士有志によって「官邸前見守り弁護団」も組織されるようになり、現在の日本の直接民主主義のかたちが出来上がっていく。
 
官邸前抗議の主催団体の立ち上げから関わっているミサオ・レッドウルフが心を砕いたのは、逮捕覚悟で警察への対峙が所与だった過去の運動とは違い「規模が大きくても小さくても、すべてを安全にやっていきたい」という点だった。合法であり、かつ身の危険がないと分かると、さらに人々の参加のハードルは一気に下がった。ときとして官邸前の路上が決壊し、20万人もの人々が溢れて祝祭的な一時的自主管理空間が創出され、抗議者たちは数の力で官邸の中に押し入ることもできた。だが、そこでミサオ・レッドウルフが最前列から参加者に行った呼びかけは「とにかく今回だけでは原発が止まることはありません。何回も続けないと、続けて圧力をかけていかないといけないので、今日はここまでで一旦解散しましょう」というものだった。そして、彼女は続けて呼びかけた。「みなさんまた来週もこの場に集まりましょう」と。この場を維持し運動を継続するという呼びかけが、反原発の運動、そしてその後の日本のデモや抗議行動ではこの非暴力こそが基本線になり、いまでは当たり前のことになったのである。このようにしてかれらが少人数ではじめた参加民主主義の試みは、この原発大国日本において、日本に再び稼働中の原発ゼロ状態をもたらし炉の火を消すことすらできるようになったのだった。そして2021年現在、たとえ菅義偉首相が原発再稼働を目的に「国際公約」で温室ガスを2050年に実質ゼロを掲げても、反原発の意識はこの国に住む人々の感情として定着しており、稼働中の原発は3基に留まっている。
 
この、いまでは当たり前になっていることを雨の日も風の日も雪の日も、毎週金曜日の官邸前抗議を続けることで、日本の政治風景は10年前から大きく変わった。でも風景が変わってあまりにも当たり前になってしまったために、みなそれに気が付かない。この「消滅する媒介」に徹することで今では当たり前となりつつあるスタンダードを作り続けてきた反原連のみなさんに、心からの感謝と敬意を捧げたい。いままでどうも有り難うございました。これからも、この日本と世界の原発再稼働反対と廃炉のためにともに闘ってください。
 
 
 
五野井郁夫 <プロフィール> 
1979年東京生まれ。政治学者/国際政治学者。日本学術振興会特別研究員、立教大学法学部助教を経て、高千穂大学経営学部教授。民主主義論研究者として「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人、朝日新聞WEBRONZAレギュラー執筆者(政治・国際)、『現代用語の基礎知識』の「政治」分野の選定と執筆も務める。サントリー文化財団「震災後の日本にかんする研究会」では、国民感情の分析を担当した。著作に『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版)など。『3.11を心に刻んで 2017』(岩波書店)にも寄稿。
 
 
 
 
 
 

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