NO NUKES PRESS web Vol.021(2019/09/26)

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NO NUKES PRESS web Vol.021(2019/09/26)
 
NO NUKES! human chains vol.10:石井麻木さん ロングインタビュー (聞き手:Misao Redwolf)
 
福島原発事故発生から8年経ちましたが、原発事故はいまも続いています。事故収束もままならず放射能の放出が続き、避難生活者も5万人と言われています(2019年3月現在)。圧倒的脱原発世論を無視し、愚かな現政権は原発を推進していますが、原発に反対しエネルギー政策の転換を求める人々の輪は拡がり続けています。【NO NUKES! human chains】では、ゲストの皆さんへのインタビューを通じ、様々な思いを共有していきます。
 
【NO NUKES! human chains】では、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。Vol.10では横山健さんからご紹介いただいた、石井麻木さん(写真家)のロングインタビューをお届けします。
 
古賀茂明さん吉原毅さん落合恵子さんドリアン助川さん島昭宏さん後藤正文さん細美武士さんTOSHI-LOWさん横山健さん石井麻木さん


【NO NUKES PRESS web Vol.021(2019/09/26)】NO NUKES! human chains vol.10:石井麻木さん @ishii_maki ロングインタビュー(聞き手:Misao Redwolf)pic.twitter.com/m80oFdLVk5 http://coalitionagainstnukes.jp/?p=12887

 
 

ーカメラをむけることが暴力にならないようにー 
 
Misao:多くの人々の意識や生き様が変わった東日本大震災と福島第一原発事故ですが、2011年3月11日、石井さんは何をされていましたか?
 
石井:翌日から始まる予定だったカンボジア地雷原で暮らす方々を写し伝える写真展のために、東京都現代美術館で搬入と設営の作業をしていました。準備が全部終わった時に地震があって、展示した写真がバーンと全部崩れて降ってきて、これはただごとじゃないと思いました。でも、私はテレビを見ないし、家にもなく、SNSとかもやっていなかったので情報を得るのが遅くて、その日はまわりの友達から情報が入ってきました。まず状況を確かめようと思って、いろいろな人に話を聞いたら東北が大変なことになっているというので、すぐに物資を身近な人たちに呼びかけて集めて、自分の車と自分の体で届けに飛んで行こうとしたんです。でも、東京でもその時はガソリンが1人1000円までしか入れられなくて、いろいろな人の車に乗せてくださいと頼んだのです。
 
だけど、原発が爆発した次の日だったので、「いまはまだ危ない、女性と子供はまだ入るべきじゃない」「危ないから連れて行けない」と、どの人にも言われて。私は無鉄砲で考えるよりも前に体が動いてしまうので、どんな手段を使っても被災地に入りたかったんですが、行くことができませんでした。それで、自分でできることをやろうと思って、寒い時期だったので毛布とか水や食べ物を集めて、九州や沖縄からも送られてきた物資を、持って行ってくれる人に託すことを始めました。その翌日に、Candle JUNEさんが『LOVE FOR NIPPON』を立ち上げて、私もスターターメンバーになって活動を始めたことで、現地の状況を把握することができるようになりました。
 
Misao:TOSHI-LOWさんや細美武士さんも物資の支援をされていましたが、それとは別にやっていたんですか?
 
石井:はい。全然別のルートでやっていました。「物資支援だけ」という言い方はしたくないのですが、その時はそれしかできなくて。でも、やはり、とにかく現地に飛んで行って、自分の目で見たかったんです。写真を撮るためではなくて、なにが起きているのか、なにが必要なのか、現地の人は今なにを一番必要としているのかを知りたかった。私は現場主義なので、見て、その場に立たないと何もわからないと思っているから、とにかくそこに行きたかったんですが、やっと入れたのが2週間後だったんです。
 
Misao:初めて被災地に入った時のことを教えてください。
 
石井:『風とロック』などのクリエイティブ・ディレクターの箭内道彦さんが、車に乗せてくれたんです。やっと乗せてくれる人がいたんですが、私に行くなと言っても聞かないのを箭内さんは知っているからだったんだと思います。一番大きい2000人以上避難されていたビッグパレットなど、福島県内の5か所の避難所を回らせてもらって、物資を届けることができました。私は常にカメラを持っているので、写すつもりはなかったのですが肩から隠すように掛けてはいたんですね。みなさん着の身着のままで避難されて、お風呂にも入れていない、心身共に傷つき疲弊されている状態でとてもじゃないけどカメラを向けられる状況じゃない。そういうところにカメラを向けるのは暴力でしかないと思っていたので、向けることはしたくなかったんです。
 
でも、避難されている方がカメラを見て、「この地獄のような状況を写して全国に伝えてほしい」と言われたんです。そうか、写真はそういう役目にもなれるんだと思って、暴力にならないように、これ以上傷付けないように、撮らせていただいてもいいところや人を写させてもらうようになりました。その後は自分の車で行けるようになったので、物資と寝袋を積んで走って行って、夜中まで物資を配ったり炊き出しをして、その翌日も作業して、50時間ぐらい滞在して帰って来ることを繰り返しました。3~5月頃までは毎週行っていましたね。7~8月頃から避難所から仮設住宅に移りはじめたので、それからは仮設に通わせてもらうようになって、しばらく月に3回は行っていました。8年半経った今でも月に2回くらい、11日の月命日には可能な限り行っています。
 
 
ー「写心」ー
 
Misao:震災が起きてから2週間後に初めて避難所を訪ねた時、ご自身はどう感じたのでしょうか?
 
石井:神戸の震災のときは中学生だったので行けませんでしたが、その後の新潟の中越地震のときにはじめて、被災地と呼ばれる場所に自分の足で行ったんです。そのときにも思ったんですが、やはり、当たり前だと思っていたものがすべて一瞬にして当たり前じゃなくなって、とにかくできることを探したいという一心でした。こんな大きな事象に対して自分は何ができるんだろう、ということをすごく考えました。これは一度来ただけじゃ何もわからないなと思って、通い続けようと、そのとき思ったんです。
 
Misao:石井さんは、震災前からカンボジアの支援をされていますよね。東日本大震災のときにも反射的に行動をされています。その突き動かされる根底には何があるのか、育った環境などの影響があるのか、興味があります。
 
石井:母の背中はすごく大きいですね。母は絵本作家なんですが、阪神淡路大震災のときにスケッチブックを一冊だけ持ってすっ飛んで行ったんですが、初めて、1枚も絵を描けないで戻ってきたことがありました。その話を聞いて、私が福島の避難所で1枚も写真を写せずに、結果的には写させていただけましたが、とてもじゃないけど写せる状況ではないと思ったのとすごく重なりました。被災地でできることがあるかもしれないのに、東京でただじっとしている、ただテレビや新聞やネットから情報を得ているというのは、とても性分に合わなくて。自分の目で見ないと、この足でそこに立たないと、この耳で現地の方々の声を聞かないと何もわからないというのがずっとあったんです。
 
カンボジアの地雷原で手も足もなくされた方、住む場所もままならない方々に初めてお会いしたときの衝撃と似ていて、なにもなくなってしまったけど、ちゃんと生きようとしているんですよ、すごくたくましく。あきらめていない姿に心がすごく打たれて、その姿に本当にこちらが力をもらってしまって。でも、その状況を知ったからには知った者の責任があると思うので、知って終わりじゃなくて知ることが出来たなら、それに対して私は何ができるのかとことん考えました。カンボジアにしても東北にしても、現地に行きたくても飛んでいけない人に写真を見てもらえたら、状況を伝えることができる。そうか、写真でそういうことができるんだと現地の人から教えてもらって、写しはじめられるようになったんです。
 
Misao:写真には芸術的表現の価値だけではなく、伝達や記録や報道という役目もありますよね。ところで、そもそもどういったかきっかけで、写真を撮りはじめたんですか?
 
石井:17歳のときに両親が離婚したんですが、父親がカメラだけ置いていったんですね。まだフィルムの時代でNikonのアナログのカメラです。そのとき高校を10日間休んで初めて一人旅にでたのがたまたま東北だったんですが、そこで撮った写真がすごく寂しい写真ばかりだったんです。遠くの人影とか、自分の足元とか、水に映る木の陰とか、何もない線路とか、泣いているような写真ばかりで、写真ってこんなにも心が映ってしまうんだと思いました。それで「写す心」「写る心」と書いて「写心」と呼ぶようになって。見てもらうと多分わかると思いますが、私、笑いながら撮った写真はすごく笑っている写真になっていて、泣きながら撮った写真は一発で見抜かれてしまうくらい、泣いているような写真になっていて。そのころまでは母の影響もあり絵描きを目指していたんですが、それ以降写真ばかり撮るようになって、18~19歳から写真の仕事をはじめて、そこからずっと写真と生きています。
 
 

ー知らないとゼロのままー
 
Misao:東日本大震災は天災であるだけでなく、原発事故という「人災」を伴いました。放射能のせいで捜索できなかったエリアがあって、助かったかもしれない人が助からなかったんじゃないかということもあったし、帰還できない区域ができてしまいました。
 
石井:20代のときに映画『六ヶ所村ラプソディー』を観て少し勉強したり、『アレクセイと泉』と『ナージャの村』も観ました。両方ともチェルノブイリ原発事故の映画ですが、こんなに怖いことになってしまうんだということを初めて知ったんです。でも、一般的な知識しかなかったので、原発事故のあとにいろいろ調べて勉強しました。実際にそうでしたが、事故が起きてからじゃ遅いのに。東京の電力を福島でつくってくれていたことも知らなかったんです。福島でつくられた電力で生きてこられたことをはじめて知って、申し訳ない気持ちと、ありがとうございましたという気持ちと、とにかくごめんなさい、恥ずかしいという気持ちになりました。だから福島の方たちと福島の地にできることがあるのであれば、恩返しといったら変ですが、なんでもさせてほしいと思って、それから毎月、福島に通わせてもらっています。
 
Misao:石井さんは、福島に行く度に写真を撮るようになって、全国の人々に伝えるために、写真展『3.11からの手紙/音の声』をもう30か所以上開催されています。写真展に来る方のほとんどは、被災地には行ったことのない方たちだと思うんですが、何か手ごたえだったり、印象に残っていることはありますか?
 
石井:物理的、時間的、いろいろな状況から、現地に行きたくても行けない人の方が圧倒的に多いと思いますが、写真を各地に持っていくことで、8年分の一部だけでも見て知ってもらうことができます。「知っているようでなにも知らなかった」「知ることができてよかった」「必ず何かのタイミングで現地に行ってみたいと思います」「写真展がきっかけで東北に行くようになりました」という声がものすごく多いです。知らないとゼロのままだけど0.1でも1でも知れば、それは百にも千にも万にもなる可能性がある。人に伝えることもできるし。そうしたら、どんどん広がっていくから、まずは知ることが大事だと思っているので、写真から少しでも伝わってくれているのはとてもうれしいです。写真展は全国各地で開催させてもらっていますが、東北でさせていただくことも多いんです。
 
東北では、思い出してしまって辛いと思う人、苦しくなる人もたくさんいると思うので、そういう人には「無理して見ないで下さい」といつも伝えているんですけど、それでもやはり見たいと言って、見てくれる人が多いんです。「今まで見てきた震災の写真とかテレビとかと全然違っていて、初めて、見られてよかったと思いました」という言葉をいただきました。「笑顔の写真がたくさんで、光を感じる写真が多いので、辛いだけじゃない、悲しい思い出だけじゃないから救われました」という言葉をいただけたときには、そうか間違ってもいなかったんだなと思いました。正しいのか正しくないのかは、今でもわからないけど。永遠に、その答えは出ないと思います。
 
 

ー自分の中にあるすべてを使っても伝えきれないー
 
Misao:福島をはじめとして東北に通い続けて、被災された方とも接してきている中で、何か伝えたいことはありますか?
 
石井:8年以上経ったいまでも、双葉町と大熊町と、未だ人が暮らせない町が2つあって。Misaoさんもきっと行かれたと思いますが、その町にも何回か行かせてもらっていますが、8年以上経っても作業員の方以外に人っ子ひとりいなくて、それって異様じゃないですか、そんなこと。異様なのに、実際に町に入ったら、入らせてもらった双葉町はすごく美しくて。この前、桜の時期に再び行ってきたのですが、自然はものすごく生き生きしていて、ただ人がいないだけで、自然は生きていて鳥は飛んでいて花は咲いていて、川の水は流れていて。でも、家々は傷み、暮らしている人はいなくて。
 
Misao:私も何度か行かせていただいていますが、おっしゃっていることはすごくよくわかります。なにか、自分たちが普段生きている空間とは別世界みたいですよね。
 
石井:そう、本当に別世界で。実際に行かないとわからないなということがすごくいっぱいあって。伝えるために写真を撮っておきながら、これは写真でも映像でも言葉でも伝えきれないんじゃないか、どうやったら伝えられるだろうと考えます。
 
Misao:伝えきれない。
 
石井:そう、伝えきれない。自分の中にあるすべてを使っても伝えきれないぐらいの衝撃で。でも、それは実際にそこにある現実で、8年前の炊き出しのおにぎりがそのまま、そこにあって。一晩、小学校に避難されていた方たちのおにぎりとか飲み物が置いてあるままになっていて。ランドセルとかもそのままで。子供たちは上履きで出て行ったまま戻ってこられていないから、靴なども散乱したままで。実際に起こった現実なんですよね。双葉の方たちはいまもいわきだったり、会津地方だったり、県外だったりに避難されていて、この8年半、毎月通って顔を合わせているお母さんたちも、双葉や富岡の方が多いんです。富岡町は一部は帰れるように、暮らせるようになりましたが。
 
「いつ帰れるんだろうね」という声と、「もう一生帰れない、帰れると国が決めても、帰ろうとは思わない」という声と、「帰れるなら帰りたい、生まれて育ってきた町だから、そこで命を終えたい」という声と。小さい子供を持つお母さんの「とてもじゃないけど帰る選択肢はないです」という声と、本当にあらゆる声を聞いてきました。どれも本当の声で、私の立場からしたらどれも肯定したくて、全部うなずけるんです。だれの気持ちもわかると言ったらおこがましいけど、どれも間違ってないし、正しい正しくないではなく、それはその人が決めることなので、悩んで悩んで選んだ答えを全身で肯定したい。
 
どちらを選んでも福島の方は傷を負ってしまったじゃないですか、あの時。避難することを選んだら逃げたと言われて後ろ指をさされ、残ることを選んだら、危ないのになんで逃げないんだと他県の人に責められて。どちらを選んでも、そんな状況になってしまって。ある程度除染したり、時間が経つにつれて、町がきれいになったりとか、目に見える形での復興はもちろん進んでいます。そんな中で、心の中の不安は置き去りになって、幼な子、幼稚園とか保育園とか小学生、中学生のお子さんをもつ親御さんたちは、もう原発の話自体を話題にしなくなってきている。暗黙の了解みたいに、その話はしない雰囲気になってきています。
 
 

ー同時に不安も同じぐらい増えているー
 
Misao:原発や放射能の話をしなくなったのは何でだと思いますか?
 
石井:子どものいじめもそうですし、これはとても繊細な話ですが、女の子をもつ親御さんは、「福島生まれというだけでもらい手があるのか、結婚ができないのではないか」と、会うたびに泣きながら話してくださる人もいます。あのとき、その場所にいただけで、被ばく量はだれもわからないのに、福島出身というだけで、いまだにあるんです。いじめとか、出て行けと言われたり。県外に避難した方も、福島出身ということは言えずに、それを隠して生きている方も。でも、残っている方は残っている方たちで、もう原発の話をしても放射能が消えるわけでもないし、被ばくしたかもしれないことが消えるわけでもないし。それを受け止めたまま生きていくしかないから、話さなくなっているという声も聞きました。
 
Misao:私は広島出身なんですが、原爆の投下でも同じようなことになりました。やはり、お嫁に行けないかもしれないから隠したり、それがわかったら相手の親が反対するとか。被ばくの症状が出ている出ていないにかかわらず。それと同じようなことが、また原発事故で起こっているんですね。
 
石井:そんな悲しいことが…。いまは、東北はほぼ復興したということになっているじゃないですか。例えばオリンピックに向けて駅や駅周辺だけきれいにして。どこもかしこも、見た目だけきれいにして。でも内面的にはどんどん、逆にもっと不安が増えているようにしか私には見えなくて。もちろん楽しいことも増えたから笑顔も増えていますが、同時に不安も同じぐらい増えていると、毎月行くたびに感じるんです。
 
Misao:行く度に会い続けている、特定の方々がいらっしゃるんですよね。
 
石井:その度に初めて会う方ももちろんいますが、ずっと会っている方もいます。あのとき生まれた子供がいま8歳になって、成長過程をずっと見てこられているということもあります。「私の親友が帰ってきたー!」と言ってガバッと抱きついてきてくれたり、その子供たちに会えるのもすごくうれしくて。お母さんたちは食べきれないぐらいのおにぎりを作って待っていてくれて、娘のようにかわいがってくれて。「おかえりー、また帰ってきた!」と言って迎えてくれるのが、すごくうれしいんです。
 
だから、義務感とか使命感で毎月通っているのではなくて、本当に行きたくて、帰りたい場所に帰っているような感覚なんです。「月命日にひとりでいたくない」という声を聞いてから、月命日には必ず通っているんですけど、それだけじゃなくて、私自身が会いたいから通っているというのがあります。最初のころは話してくれなかったような心の声も、通い続けることで話してくれるようになったこともありますし、それを人に伝える伝えないは別にして、それは私の中ではすごく大きなことだったんです。
 
 

ー人の数の分だけの光が天の川みたいに見えてー
 
Misao:ところで、私たちが主催している『再稼働反対!首相官邸前抗議(金曜官邸前抗議)』で、2012年の夏頃に参加者が官邸前にあふれたとき、石井さんはヘリコプターから空撮をされていたんですよね。ちょうど、東北に定期的に行くペースがついていたころだと思いますが。
 
石井:そうです、東北に毎月行くことの中で、官邸前抗議にも通わせてもらうようになったころでした。IWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)とOPK(オペレーション・コドモタチ)が集めたカンパで飛ばしたヘリに乗せてもらいました。ヘリコプターって乗ったことあります?
 
Misao:ないです、乗ってみたいんだけど(笑)
 
石井:あれが最初で最後になるかわかりませんが、私もあのとき初めて乗ったんです。撮影のために一番低く飛んでもらったからというのもあるんですけど、すっごい揺れるんですよ。とてもじゃないけど、これは写真が撮れるのかなというぐらいの揺れで。あのあとヘリから降りて2週間ぐらい、ずっと、こうやって揺れ続けていたくらい。あ、デモの人たちの、あのときの光はなんの光だったんだろう?
 
Misao:私たちは配った覚えはないんですが、誰かがペンライトか何かを配ったんじゃないかと思います。ああいうときは、いろいろな人が好きなことをやり始めるから。でも、あれは良かったですよね。
 
石井:人の数の分だけの光が、光の粒たちが、地上の天の川みたいに見えてすごく美しくて。ヘリは揺れているけど、これはどうやっても写真に収めないといけないと思って、思い切り息を止めてシャッターを切っていました。ヘリは初めての人は体に負担がかかるから20~30分しか乗っちゃいけないらしいんですけど、何周も何周もしてもらって、2時間近く飛んでもらったんです。
 
Misao:あれは窓越しから撮ったんですか? ヘリの揺れだけでなく、すごく撮影が難しかったのではないでしょうか。
 
石井:窓というかドア越しだし、揺れるしで、難しかったですね。でも、せっかくヘリに乗せてもらったし、なんとしてでも撮らなければいけないと思って。この熱を伝えないといけないし、残さなければいけないと思って、撮らせてもらった写真があの写真です。
 
 
ーゼロではない1でいたかったー
 
Misao:空撮の前には、デモにも参加されていたんですよね。
 
石井:とにかく、頭数のひとつになりたいと思って参加していました。私がもうひとりを連れて行けば、2になると思っていました。1ってすごく小さいけど、すごく大きいじゃないですか。ゼロはゼロのままだけど1は百にもなれると思っていたので、1になりたかった。ゼロではない1でいたかったというのがあって、行かせてもらっていました。でも、地下鉄の出口が封鎖されたり、すごかったじゃないですか。回り道させられたりとか、すごく覚えているんですけど。
 
Misao:警察も不慣れで適切に対応できなかったんですよね。あんなことがあったのは70年代以来で、そのころの現役の警官はもういないから。左翼活動家の人たちが警察が運動を弾圧していると言っていましたが、それは違うんです。私は当時からずっと警察渉外を担当しているので、わかります。警察官も人それぞれなので、態度の悪い人に当たってしまうと、そう誤解してしまうのもわかりますが、私からすると、急にあんなふうになって警察もちょっと気の毒だったというか。霞ヶ関駅は電車が止まらないようになったくらいだから。
 
人が増えてきたから、管轄の麹町署の警備課長に「溜池山王側に人を誘導しませんか?」と言ったんですよ。そうしたら課長は、「ぼくにいい考えがあるから」と言って、車道の1車線を現場判断で開放してくれました。それが決壊に繋がったんですが、いま思えば正しい判断です。人が歩道にぎゅうぎゅういて、危なかったですから。でも、決壊したもんだから、それ以降は麹町署ではなく本庁の指揮になり、現場を知らない上層部の判断で警備をやるようになって、柵が設けられたり、チンプンカンプンな警備になってしまったわけです。
 
石井:あのときは、本当に変えられるんじゃないかという、すごい流れがありましたよね。
 
Misao:野田首相が大飯原発を動かすというので、泣いていた人たちもいました。私は3.11前から活動をしてきて見ているから、政府は原発を動かすんじゃないかと思っていましたが、「原発事故があったのに再稼働はしないだろう」と信じていた人たちが多くて、そういう人たちの怒りや悲しみが、あの場に満ちていたように感じました。私は運営側だし冷静にしていましたが、だからこそみんなの雰囲気をきちんと感じることができたんだと思います。
 
石井:悲しみと、不信感と、怒りと諦めと絶望と。
 
Misao:私たち主催者も一兵卒感覚ですし、自分たちは器作り、場作りに徹して、来た人たちすべてが主体という考えで運営していました、今もそうですけど。あの時、主体であるいろいろな人のいろいろな思いが、正負入り混じって、純粋に結晶したのかもしれません。
 
石井:それを空から写しながら、ものすごく美しく見えてしまって。人々の想い、諦めず声を上げようとしている姿。熱のかたまりみたいなものが空まで届いていました。
 
Misao:あの時あそこにいた人たちの思いが、写真になって残るというのはすごく大事で素晴らしいことだと思います。あの時、地上でデモの先頭にいた私が、それを空から見ていた石井さんと、7年経って初めてお目にかかるのは、なんだか不思議な気分です。
 
 

ー感情が裸でいられる場所ー
 
Misao:石井さんは、『東北ライブハウス大作戦』にも関わっていらっしゃいますよね。
 
石井:はい。立上げから少し経ってから知って、参加しました。一番印象に残っているのは、2013年かな、TOSHI-LOWさんと細美武士さんと3人で、1台の車で、『東北ライブハウス大作戦』の取り組みでつくられたライブハウス3か所と、プラス2か所の、計5か所を3日間で回ったという、すごく自分の中では大きなツアーがあったんですね。音がなくなってしまった場所に音を鳴らす場所ができて、そこに音を届けるミュージシャンがいて、音を受け取りに来るお客さんがいて。
 
そこにはステージも客席もなくて、その箱自体、空間が、先ほどのデモの話ではないですが、熱のかたまりというかキラキラしていて、エネルギーのかたまりのような空間で。何て言えばいいんだろう。汗と涙と悲しみがあって、笑顔もよろこびもあって、全部の感情をぐちゃぐちゃにして感情が裸でいられる場所。あまり特別視はしたくないけど、やはりあの3か所は、特別な場所なんです。Tシャツを作って寄付したりしているのも、続いてほしいから、一緒に続いていきたいからです。私にとって、ずっと見ていきたいし、関わっていたいと思うような場所なんです。

 
Misao:TOSHI-LOWさんと細美さんとは、以前からの知り合いだったんですか?
 
石井:BRAHMANは震災前から写真の仕事で繋がりはありましたが、細美さんと知り合ったのは震災後です。震災直後、炊き出しや支援活動で東北に行く度に細美さんがいたんです。全く別々で動いていても、炊き出ししていて「あれ、またいる」みたいな感じで、何回も同じ場にいました。あまりに自然に知り合っていったので、東北各地で行動を共にするようになったきっかけが思い出せないんです。どうして3人だけでツアーに行くことになったのかも思い出せないぐらいです。波長が合ったんですかね。頼もしい、リスペクトしている2人のお兄ちゃんです。たまに5歳児みたいになりますが。
 
Misao:石井さんもですが、あのお二人の行動力もすごいですよね。ヘイトスピーチに抗する『TOKYO NO HATE』のデモで、エセタイマーズとしてサウンドカーで演奏された時には、本当にうれしかったのをおぼえています。
 
石井:ほんとうに、あの2人の背中こそ、ずっと見させてもらいたいなと思っています。
 
 

ー信じることとあきらめないことー
 
Misao:石井さんが生きていく上で、自分が何かする上で、大事にしていることについてお聞かせください。
 
石井:信じることとあきらめないこと。言葉だけで言ったらなにかスローガンみたいですけど、私はすごく信じやすくて、もちろんその分、傷もいっぱい負ってきたのですが、それは悪いことだとは思っていないんです。何もかも疑ってというのは、もちろん、それも一つの生き方だと思うんですけど、私は信じたくて。人も自分も。そして始めたからにはあきらめたくはなくて。写真展も自費で全国を回っているのですが、金銭面もそうだし体力面も、とっくに限界を超えているんですけど、伝えることをあきらめたくないんです。
 
Misao:写真展は入場無料でやられていて、収益はないんですよね。
 
石井:はい、東北や震災のことで1円も受けとりたくない想いから、利益は1円もない状態でやっています。それでも伝えたいから続けていますが、気力も体力も心も折れる時もあるし、これで最後かもしれないと思うこともあるけど、でもその度に、いや全然まだ足りないって思ったりします。まだ伝えられていない土地もあるし、まだ、そこで待っていてくれている人たちもいるし、あきらめている場合じゃないと思って、毎回、次の地に、次の地にと自分で自分の背中を押しているような感じで進めています。カンボジアのときも3.11の後もそうだったけど、やはり、自分の目で見たい、耳で聞きたい、足で立ちたいんです。自分の部屋でぬくぬくした状態で情報を得て、わかった気にはなりたくないと思っています。ひと言で言うとなんなんだろう。現場主義かな。
 
Misao:私も現場主義なので、おっしゃっていることがよくわかります。石井さんは、いろんな人や事象が入り交じった中で、ずっと活動を継続されていることは大変なことだし、折れそうになるときもあるとおっしゃいましたが、その気持ちを乗り越えて、あきらめずにいることはすごく強いことだと思います。
 
石井:写真展を終わらせるのは簡単ですから、いつでもできますよね。続けることは一番大変だけど、一番大事なことだと思っています。特に、このようなことについては、区切りとかもないですし。震災から5年経ったからとか10年経ったからとか、じゃあ、ここまでです、という話ではないので。伝えて欲しいっていう声がある限りは、見たいと待っていてくれる人がいる限りは、活動を続けたいと思っていいます。
 
Misao:このインタビューを読んでくださっているかたに、伝えたいことは?
 
石井:先ほどと同じことになりますが、ゼロではない一でいてほしいと思います。どんなことに関しても。無関心な人と動いている人たちの2つじゃなくて、何が何でも現地に行って欲しいとか、そういうことじゃなくて、あなたがいるその場所、生きているその場所で、自分の生活サイクルの中で知ることぐらいなら多分できると思うんです。それだけで、意識がすごく変わってくるから。知ることしかできないというのは、知ることならできるということ。行動はその次かもしれないけど、意識の変化も行動の一つなので、それを自信を持って大事にしてほしいというのはあります。
 
 
ー「原発反対」という文字ー
 
石井:私には東北で原発作業員の友達もいるし、家族全員が原発で働いている子もいるんですが、それは全然「悪」なわけじゃ、まったくないじゃないですか。そうではなくて、その子たちはいま故郷が失われていて、家族がバラバラの場所で住んでいます。いまも原発で廃炉作業をしている人もいます。たとえば「原発反対」という文字だけを見ると、その人たちが、自分たちを否定されたように感じてしまうという声もあって、それはすごく悲しいなと思っています。同じ未来を見ているのに言い方一つだったり、言葉尻だったり、表面上だけ捉えると、どっちにも転んじゃうじゃないですか。

作業員さんを責めているつもりは1ミリもなく、むしろ感謝していて、ごめんなさいと思っていても、でも、危ないから原発はやめようよというのを、「反対」という文字だけを見ると、作業員さんたちがいままでの人生を否定されたように感じるのはすごく悲しいし、でも、そうじゃないんだよということを伝えたいし。そういうこともわからずに形だけで「原発反対」と言っている人たちにも、作業員さんたちのその声を伝えたいというのはあります。
 
Misao:そのへんはすごく難しいところですよね。私たちも、2015年だったかな、福島の推進派の学者に福島の新聞で、官邸前抗議が風評被害を作っていると書かれたことがありました。官邸前のデモが、福島の農作物や被ばくなどの風評被害をつくっていると。「原発反対」と言っていることを、いろいろな解釈をされるんだなと身をもって感じたことがありました。本当に、難しいですよね。
 
石井:いろいろなことが難しくて。
 
Misao:全部とろうと思うとなにもできなくなってしまいますね。
 
石井:でも、なにもできないから、無力を思い知ったからこそ、むずかしいながら、つたないながらも、発信し続けたいと思っています。それが世に向けてだったり、一個人に向けてだったりかは、時と場合によりますけど。
 
 

ーそのおばあちゃんの顔が忘れられなくてー
 
石井:2011年4月の月命日の日に、宮城県の山元町の避難所で、一人のおばあちゃんが1枚のしわしわの家族写真を見せてくれたんです。家族みんなが笑って写っている、たわいもない日常の1枚なんですが、すごくいい写真で、それだけを肌身離さず持っていらして。こちらからは事情を聞くようなことはしたくないので「皆さん笑っていますね」と話していたら、津波で流されて家はなくなってしまって、亡くなった人もいて、家族がバラバラになってしまって、どこにいるかわからないと教えてくださいました。でも、この1枚の写真に家族全員がいるんだと言って、泣きそうな笑顔で見せてくれたんです。
 
そのおばあちゃんの顔が忘れられなくて。写真は言ってしまえば紙切れなんですね。1枚の紙切れなんですけど、そこに家族の会話だったり温度だったり、食卓で食べたご飯の味だったり、歴史だったりが全部詰まっていて、写真はそういう力にもなれるんだということを、そのときあらためて気づかされました。写真は暴力にも薬にもなるんです。音楽もそうかもしれないんですけど。どっちにも転ぶ、下手したら転んじゃうので暴力にもなっちゃうから、私は、それだけはないようにと思いながら写させていただいています。いまでもずっと、今でも常に意識して気をつけて、これ以上傷つけないようにと思いながら、写させていただいています。
 
Misao:私もいわきに親しい友人がいて、3.11の前からよくいわきに通っていて、第二の故郷のように感じてます。東京というのは、なんだかすれっからしな感じがして、いい言葉じゃないかもしれませんが、東北には純朴さがまだ残っていて、心安らぎます。
 
石井:ほんとうにやさしいんですよ、東北の人たちは。辛抱強くて、我慢強くて。通うようになって、第二の家族ができたみたいな感じで、すっかり大好きになってしまったんです。ほんとうに落ち着くし、温かいし。私は東京で生まれ育ちましたが、一度も東京を好きになれたことがないんです。でも、東北は一瞬で好きになって。こういう活動をしているから、いろんな人に東北出身だと思われているんですけど、自分でもそう思い始めているぐらいで、向こうにいる時間の方が長いし、そう言われてうれしいくらいです。自分でも、「あれ、自分は東北生まれだったかも」とたまに思うくらい大好きで、大切です。
 
 
(2019年6月26日 東京都世田谷区にて)
 
 
 
石井麻木 ISHII MAKI  <プロフィール>
 
写真家。
東京都生まれ。
 
写真は写心。
一瞬を永遠に変えてゆく。
 
毎年個展をひらくほか、詩と写真の連載、
CDジャケットや本の表紙、映画のスチール写真、
ミュージシャンのライブ写真やアーティスト写真などを手掛ける。
 
17歳の時にカメラを手にし、19歳から写真の仕事を始める。
2009年からカンボジアの地雷原で暮らす人々を写し始める。
東日本大震災直後から東北に通い続け、現地の状況を写し続けている。
2014年、写真とことばで構成された写真本『3.11からの手紙/音の声』を出版。
あまりの反響の大きさに全国をまわり写真展の開催を続ける。
2017年に同写真本の増補改訂版を出版。
収益は全額寄付している。
 
 
石井麻木写真展【3.11からの手紙 / 音の声】https://www.311tegami.com
●2019年9月25日(水) – 30日(月) 10:00-21:00 ※最終日は17時まで
at 岐阜 アクティブG 2階 Gストリート(JR岐阜駅直結)
入場無料
●2019年10月9日(水) – 21日(月) 10:00-18:30 〈火曜日定休- 10/15 火曜日はお休みとなります〉 ※最終日は15時まで
at 熊本県 トヨタカローラ熊本(株)東バイパス店
入場無料
 
石井麻木写真集【3.11からの手紙 / 音の声 増補改訂版】
写真・ことば:石井麻木
定価:2,200円(+税)
発行元:シンコーミュージック・エンタテイメント
東日本大震災直後から毎月写し続けてきた6年間の東北の様子を、言葉とともに時系列で掲載。そしてその間に東北の地で鳴らされてきた音楽の写真。
復興どころか復旧もままならない場所がまだあるにも関わらず、世間では関心が薄れつつあるのも事実である今、少しでも風化を妨ぐため、写真と言葉で届ける本。
懸命に東北の地で生きる方々の姿、そしてその地に音の声を届けるたくさんのアーティスト。あの日からの精一杯の手紙。
 

<予告>NO NUKES! human chains vol.11
このインタビュー・シリーズでは、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。石井麻木さんからは、西片明人さん(ライブサウンドエンジニア/東北ライブハウス大作戦・代表)をご紹介いただきました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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