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NO NUKES PRESS web Vol.020(2019/08/27)
Posted on by 反原連 on 7月 29th, 2019 | NO NUKES PRESS web Vol.020(2019/08/27) はコメントを受け付けていません
NO NUKES PRESS web Vol.020(2019/08/27)
Report:原発事故から8年 ー 福島・喜多方の雄『会津電力 – Aizu Electric Power Company -』
文:Misao Redwolf(首都圏反原発連合)
– NO NUKES ENERGY AUTONOMY! – 首都圏反原発連合は、脱原発とともに、エネルギーの自立を訴えてきました。このたび、再エネ事業の草分け的存在である、『会津電力』の佐藤彌右衛門さんにお話を伺う機会を頂きました。
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【NO NUKES PRESS web Vol.020(2019/08/27)】Report:原発事故から8年 ー 福島・喜多方の雄『会津電力 – Aizu Electric Power Company -』/文:Misao Redwolf(首都圏反原発連合) https://pic.twitter.com/Wq6Ld2saTe http://coalitionagainstnukes.jp/?p=12844
【NO NUKES PRESS web Vol.020(2019/08/27)】Report:原発事故から8年 ー 福島・喜多方の雄『会津電力 – Aizu Electric Power Company -』/文:Misao Redwolf(首都圏反原発連合) https://pic.twitter.com/Wq6Ld2saTe http://coalitionagainstnukes.jp/?p=12844
―序―
2011年3月11日の東日本大震災により引き起こされた「人災」、東京電力福島第一原子力発電所の事故から8年以上が経過した。安倍政権は2020年東京五輪を誘致するために、「福島第一原発はアンダーコントロール」と世界に虚偽を発信し、また、住民の反対により撤回されたが、モニタリングポストを撤去しようとするなど、原発事故がなかったことにしようとしているように見受けられる。しかしその一方で、未だに5万人以上の人たちが放射線量の高い我が家に帰れずに、避難を強いられているという重苦しい現実がある。当の福島第一原発といえば、燃料デブリの取り出しも難航し、敷地内に溜まり続けるトリチウム「汚染水」の処理にも困り、事故の収束へは程遠く、先行きは不明瞭なままだ。このような状況で、なお、危険な原発と核燃料サイクル政策を推進する安倍政権は、狂っているとしか言いようがない。
安倍政権は2018年に策定した「第5次エネルギー基本計画」において、再生可能エネルギーを「主力電力」としているが、実際には、再エネに力を持たせないようにする「政策障害」が存在する。そのひとつが「固定価格買取制度(FIT)」の買取価格の下落。これにより、再エネ事業の新規参入のハードルが高くなる。また、昨年話題になった、九州電力による太陽光など再エネ発電の出力抑制。電力の需要より供給が大きく上まわる過剰発電になった場合、大規模停電が起きる可能性がある。そこで出力抑制が必要になるのだが、2015年の「再エネ特措法施行規則」の改正により、一定の基準を超えて連系した太陽光発電設備は、電力会社からの出力制御の要請に無制限・無補償で応じるという、原発優先のルールが定められた。2018年に全国で初めて九州で実施されたが、一方で、これにより、九州の電力は再エネでまかなえるという可能性を社会に示したことにもなる。
「政策障害」の最たる問題は、送配電だ。現在は、原発を持つ大手電力会社が、「発電」「送配電」「小売」という3部門を一貫して提供し、地域独占の形態にある。配送電を独占する大手電力会社が、再エネ事業者に系統を使わせないということが起きており、再エネの発展の妨げになっている。実際には、大手電力会社は系統の20%程度しか使っておらず空きがあるにもかかわらず、「何かの時のために空けておく必要がある」と、再エネに系統を繋ぐことを拒んでいる。2020年に日本でもいよいよ発送電分離が実施されるが、発電や小売の自由化のように新規参入はできず、ひとつの事業者が地域独占的にサービスを提供する形態は残しつつ、さまざまな事業者が送配電網を公平に利用できるよう、中立性を高めるという方法なので、既存の既得権益が残存しないよう、注視が必要だ。
– いざ、喜多方へ! –
しかし、そうした政府による「政策障害」をものともせず、再生可能エネルギー発電の事業は、全国津々浦々で展開されている。それも当然のことだ。福島第一原発事故を受けて、安全対策のために原発の建設費用が高騰したことにより、安倍政権の政策の目玉のひとつだった「原発輸出」は全て頓挫、原発は経済的に立ち行かないことが証明された。再稼働するにも、原発立地自治体の了解をとるのもままならない。最近では原子力規制委員会でさえもテロ対策に厳しくなり、現在稼働中の9基の原発はテロ対策施設の設置期限に間に合わない場合、来年3月から順次運転停止の可能性がでてきた。世界では、福島第一原発の事故をきっかけに脱原発に舵を切る国もあり、自然エネルギーが主流になりつつある。明らかに「原発廃炉時代」に突入しているのだ。
脱原発・反原発の活動では「原発ゼロ」を訴えるわけだが、それに付随して「代替案」を述べることで主張は厚みを増す。私たち首都圏反原発連合(反原連)では、2015年から「NO NUKES! ENERGY AUTONOMY!」というスローガンを掲げている。『NO NUKES PRESS』でも、自然エネルギー・再生可能エネルギーの事業者の取材をしたいと考えていた。知人の元政治家が経営するメガソーラーを取材するか、または草分けである福島の『会津電力』を取材するかなどを考えていたところ、友人で『認定NPO法人 いわき放射能市民測定室たらちね』(http://coalitionagainstnukes.jp/?p=11297)の事務局長である鈴木薫さんから電話がきた。なんと、『会津電力』見学のお誘いだったのだ。これはちょうど良い機会だと思い、同行して取材させて頂くことになった。
『会津電力』見学の集合時間が午前10時だったため、私は前日夕方に喜多方駅に着いた。たまたまとった宿は、『会津電力株式会社』取締役会長、佐藤彌右衛門さんが経営するビジネスホテルで、環境に良いペレットストーブが設置されているということだ。ホテルにチェックインした後、夕食と街並みを見るために外出した。佐藤彌右衛門さんが経営する大和川酒造の『大和川酒蔵北方風土館』が徒歩圏内にあるので、行ってみた。遅い時間だったので中には入れなかったが、堂々たる酒蔵が自信ありげにそびえていた。喜多方は商人の街、蔵の街だ。私は会津若松へは時々訪れてきたが、お隣の喜多方は初めてだったので、取材の前に街の雰囲気を感じたいと思い、夕暮れの市街地をうろうろと足の向くままに歩いてみた。喜多方ラーメン発祥の店『源来軒』で夕食をとり、ホテルに戻った。
– 雄国(おぐに)太陽光発電所 –
翌朝、いわきから車でやってきた鈴木薫さんがホテルに迎えにきてくれた。見学に同行する、鈴木さんの知人のふたりの女性と挨拶をし、私たち4人は『大和川酒蔵北方風土館』に向かった。到着すると鈴木さんと以前よりつながりのある佐藤彌右衛門さんが出迎えてくださり、前日は中に入れなかった風土館をスタッフが案内してくれた。お酒の試飲を楽しみ、私たちは日本酒を購入したあと、「座敷蔵」と呼ばれる蔵の主人、佐藤さんの部屋で暫し談笑をした。2018年3月、反原連は、小泉純一郎氏率いる『原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟(原自連)』の脱原発大賞の特別賞を受賞。その授賞式に原自連・副会長である佐藤さんもおられたが、お話しするのは初めてだった。ゆったりした面持ちと雰囲気の中に、強い芯があるような印象を受けた。とても気さくで「また会いたい」と思わせる包容力を感じる。
私たちは佐藤さんの車で、会津電力の第1期事業として建設された、会津地域で初のメガソーラー発電所「雄国太陽光発電所」に向かった。風土館のある市街地から山のほうに向かい15分ほど車を走らせると、いよいよ発電所に近づいてきた。蕎麦と葡萄の畑が一面に広がる坂道を登り、雄国発電所に到着した。3740枚のソーラーパネルがキラキラと綺麗に並んでいる。パネルはこの緑豊かな場所の自然の一部のように馴染んでいるように見えた。パネルの高さと角度は、冬の積雪に対応できるように施工されている。雄国発電所は2014年10月に稼働開始し、年間108万6180kW、一般家庭約300世帯分相当の電気を作っており、雪深い会津地域において、太陽光エネルギーの活用が可能であることを十分に示している。また、毎日の発電量をwebサイトで公開しているのも特徴だ。
発電所のあるこの一帯の土地は、かつて、減反政策により木々がひん剥かれ切り開かれた。しかし開墾したこの土地で米の替わりの作物を作る人は誰もいない。そこで佐藤さんが買い取ったというわけだが、赤い色の火山灰の土は痩せていて水分も少ない。こうした土壌には蕎麦や葡萄が適しており、昨年初めて葡萄を収穫しワイン30本を生産した。国家の減反政策の失敗の爪痕のようなこの土地の一番高いところに、新時代への希望の象徴のように、発電所が誇り高く鎮座している。ソーラーパネル畑に隣接して、「雄国大学」と書かれた木の看板が掲げられた施設がある。木のぬくもりを感じる素敵な建物の中は広いホールになっており、自然エネルギーについてのパネルなどが展示してある。ここで、子どもたちを対象にした勉強会やイベントを開催しているそうだ。このままここの空気を吸い続けたい思いだったが、私たちは発電所をあとにして、昼食に向かった。
– 会津電力株式会社 Aizu Electric Power Company –
ここで、会津電力の沿革を紹介したい。会津電力株式会社は福島第一原発事故を契機に、「エネルギー革命による地域の自立」「すべては未来の子どもたちのために」を理念とし、佐藤彌右衛門さんを中心に会津地域の有志が集まり、2013年8月1日に設立された。これまで原発を見過ごしてきた大人の責任として、地域で再生可能エネルギーを作り出そうという活動は、次世代の子どもたちに「社会は私たちの手で変えることができる」という実感とともに地域を手渡してゆくことにもつながる。本社は喜多方市にあり、会津若松市に営業所を有する。合計80の団体や個人が株主であるが(2018年末現在)、5行の金融機関や、喜多方市をはじめ、周辺の8市町村の自治体が株主であることが特徴といえる。まさに、中央集権的ではなく、地域主体の取り組みである。
会津電力の事業内容は、「エネルギーの地産地消」として、83カ所に小規模分散型太陽光発電所を設置、合計5964kw、一般家庭約1800世帯分の発電をしている(2018年末現在)。「小規模発電」にした理由は、災害リスクを低減することと、地域の人たちに自然エネルギーへの関心を持ってもらうためだ。一方で「会津初のメガソーラー」として、私たちが見学した雄国太陽光発電所も有している。ほかに「再エネ事業全般」として、バイオマスボイラーによる熱発電事業、大型風力発電事業に取り組んでおり、地域のスマートグリッド化や、「ソーラーシェアリング」システムへの技術協力を始めとした、再エネを農業に活用する仕組みづくりを計画している。また、「再生エネ普及啓発活動」として、子どもたちの学習会や、発電所の見学なども積極的に行う。
上記の事業に加え、「小水力発電事業」において、今年、会津電力初の小水力発電所「会津電力戸ノ口堰小水力発電所」が運転を開始した。会津若松市の戸ノ口堰土地改良区が管理する農業用水路から取水し、水車を回し発電を行うというもので、最大出力は31.4kW。収益の一部は会津若松市に寄付される。会津電力では、今後も小水力発電所の建設を推進するという。水力発電について、佐藤彌右衛門さんはこう示唆する。会津地域では、猪苗代湖や只見川・阿賀川水系で約500万kw(現在300万kw、県内必要電力150万kw)の発電力があると推定されるが、水利権は東京電力に占有されている。もしも、水利権が会津地域に戻れば、県内のエネルギーの自給率は100%をはるかに超えるものになるはずであると。
– 会津電力設立・自治体の独立を目指して –
佐藤彌右衛門さんにお話を伺った。佐藤さんが会津電力を立ち上げたきっかけは、福島第一原発の事故だった。2011年3月11日、座敷蔵にいた時に大きく揺れたが、幸い酒蔵も傾かず、酒ビンひとつ倒れなかった。何か天変地異でも起こったかとテレビをつけ釘付けになったが、その時は、まさか原発事故が起こるとは思っていなかったそうだ。しかし、原発が爆発してからは、会津にも放射能がくるかもしれないという恐れがわいてきた。冷戦時代を経験した佐藤さんにとって、放射能は脅威的なものとして染み付いていた。そうなると、何代も続いてきたこの酒造もダメになるが、いま何もしないわけにはいかない。幸い酒蔵には水と酒瓶がある。震災の3日後には、郡山市や福島市さらに飯館村まで、ガソリンをかき集めてトラックに酒瓶に入れた水を乗せて運んだ。しかし現地では行政が機能しておらず、どこに届ければよいかがわからない。NPOが設けた拠点に水を届けた。
佐藤さんはそれまで長年飯館村とのつながりがあり、飯館の村おこしのために『おこし酒』などの酒を作り協力していたが、震災の直前から飯館村を支援する『飯館村までい大使』を務めていた。震災でおこし酒が売れなくなったので、2011年5月に東京にアンテナショップをだしたら3日で完売した。この時に、民俗学者も含め8人のまでい大使が集まったが、これがきっかけとなり7月に飯館村を支援する『までいの会』を作った。しかし、支援すべきなのは飯館だけではない。福島県全体の声なき声をださなければ、との思いで、酪農家や様々な人々と「福島会議」を立ち上げた。そこで、やはり原発はダメだ、自分たちで再生可能エネルギー事業を起こせないかという議論に発展した。こうして佐藤さんは家業の酒造のほかに、電力会社の設立に向けて動き始めたのだ。
佐藤さんは語る。「会津地域の自治体は自己財源が少なくて、7~8割は国からの交付金に頼っています。国に頭が上がらないし、交付金だから好きなようにも使えません。でも、再エネ事業でエネルギーの自立をして、安い電力を供給できるとなれば企業の誘致も見込め、雇用も増えて、子どもたちも仕事を求めて都会に行かなくなるし、税収も上がります。とにかく、地産地消、地域主体の協同組合のようなものを作りたかったんです。会津はもともと豊かな穀倉地帯で、食物の自給率は100%を上回っています。エネルギーで自立できれば会津は完全に独立できる。会津電力を始めたのは私が60歳の時でしたが、再エネ事業を通じて地域の10割自治を目指し、中央集権の構造を壊してやろうという意気込みでした。東電が独占している会津の水利権も、いつか取り戻したいと思っています。」
– 佐藤彌右衛門という生き方 –
原発事故後すぐに被災地に水を運び、飯館村を支援し、福島会議を起こし、会津電力を設立。佐藤彌右衛門さんの、このずば抜けた行動力と奉仕の精神のモーターは何なのか。非常に興味がでてきたので聞いてみた。江戸時代から続く酒造の9代目当主として「彌右衛門(やうえもん)」を襲名している佐藤さんは、祖父に当たる7代目彌右衛門さんから影響と恩恵を強く受けているという。7代目の祖父は、戦時中には地域の役職を務めていた。昭和電工という工場で朝鮮人が働かされておりそこの警護団長をしていたが、様々なトラブルをおだやかに収めていた。しかし、結果的に公職追放されてしまった。その後は政治的な発言はせずに、地域の教育や文化についての社会貢献を続けていった。そうして7代目は、地域で最高の「旦那様」という呼称で、「彌右衛門様」と人々から呼ばれ、慕われるようになったという。
喜多方では、家財用、商売用、座敷用の3つの蔵を建てて、ようやく「旦那」として認められるが、それだけでは尊敬はされない。さらに、地域に貢献してようやく「旦那様」と呼ばれるようになるそうだ。稼いだお金を地域社会に役立てる。この積み重ねが、地域の人々からの信用になる。例えば、橋が壊れたら旦那衆がお金を出し合って橋を作る。明治の頃には、15人の旦那衆が借金をして、喜多方に鉄道をひいてきた。行政ができない、やらないことを率先してやる「旦那衆」は、地域で信用され頼られる存在なのだ。20代の後半に都市部から喜多方に戻った佐藤さんは、地域社会に関わるようになるが、7代目彌右衛門様の孫ということで、地域での信用の土台があったという。会津電力が地域の出資で設立できたのも、こういった背景があると佐藤さんは語ってくれた。
祖父からの教えがある。「自分は国の大きな流れには逆らえなかったけれど、とにかく覚悟して生きろ」と。生きているうちに「天変地異」「大恐慌」「戦争」という3つのことが起こるから、とにかく覚悟して生きろという教えである。7代目はそれらを体験して、乗り越えてきた上での言葉なのだろう。「戦争はしないほうがいいし、戦争になるような状況は作ってはいけないけど、なぜ人間にはそれができないんでしょうね」と佐藤さんは呟いた。それから、3つの財産は「土地・建物」「お金」「信用」だが、信用だけはお金では買えないと教えられた。これも、7代目が自らの人生で悟ったことなのだろう。地域の人々から尊敬されてきた祖父に連れ歩かれ、佐藤さんは様々なことを学んだという。
– 政治を変えなきゃなんないね –
喜多方は蔵の街だ。蔵は火事から大切なものを守ってくれる。雪深い会津で、雪につぶされることもなく、蔵の中は湿度も一定で、夏は涼しく冬は暖かい。一度蔵を建てれば、200~300年はもつ。40歳くらいまでに蔵をひとつ建てることで、一人前の「旦那」への入り口に立てるそうだが、蔵をひとつ建てるのも大変なことだ。それを、蔵を3つ建ててようやく「旦那」と呼ばれ、加えて、社会貢献を積み重ねてやっと「旦那様」と呼ばれるようになる。「旦那様」になるには、生まれつきの人格だけではなく、相当な胆力と尽力と努力が必要だろう。そうした7代目を見上げてきた佐藤さんにも、「旦那様」の気質が染み付いているに違いない。「彌右衛門さんも、旦那様と呼ばれているのですか?」とたずねると、「さあ、どうでしょう。周りの人に聞いてみてください」と笑いながら答えが返ってきた。きっと佐藤さんも「彌右衛門様」と呼ばれているに違いない。
温厚な雰囲気の佐藤さんだが、中央集権のあり方への憤りを強く語る。「偽物の民主主義をやったって、国民は豊かにはならないんだから。議員を選出して議会を開いてこれが民主主義だけど、投票率なんて低いんだから、本当の意味での代表者が選ばれるわけではないでしょう。民主主義がまったく進化していない。このやりかたではダメなんです。もうじゅうぶんですよ、中央集権で中央が金で地方を締め付ける結果になっている。昔は村長がいて、みんなで最後までとことん話し合ってなんでも決めてきた。日本は山があり川と谷がありそこに街があって、地域ごとにお祭りもあってそれぞれの文化があるんです。地域のポテンシャルを生かして、それぞれの自治体が個性をだして、独特の地域づくりをするべきなんです。子育てに力を入れるとか、農業に力を入れるとか、いろいろ可能性はあると思います。なぜそういった地域づくりができないんでしょうか。」
「原発じゃなくても再エネで電気を作ればいいんです。小水力・バイオマス・水力・太陽光・風力・地熱で発電はできる。地域分散型で小規模発電所をたくさん作ればいいんです。北海道の地震でも大きな発電所の電源が落ちて広範囲で停電になったけど、小規模分散にすれば大丈夫なんです。東京のような大都市には原発が必要というなら、東京の真ん中に原発を作ればいいんです。でも、地震は必ずくるし、きたら東京はおしまいだね。原発立地自治体にはお金も下りるけど、危険も一緒に下りてくる。結局、電力会社と国が儲かるシステムで、地方が犠牲になっているんだよね。廃炉には1兆円以上かかるし、廃炉にすると電力会社が不良資産を持つことになるから、国は電力会社を守る。一気に再エネに転換することは可能なのに、政治家や官僚はそれができない。天下りなどの癒着があるからね。政治を変えなきゃなんないね。」
– 会津紀行 1 –
雄国太陽光発電所を見学した後昼食のために、佐藤彌右衛門さんが、手打ちそばの店『雄国農園 百日紅館』を案内してくださった。高台にあるお店で喜多方の街の絶景を堪能しつつ、皆で談笑しながら美味しいお蕎麦を頂いた。この雄国という地域は、空気が清々しく、ここに一ヶ月でも滞在したら誰でも健康になるだろうと思った。東京都心の殺伐とした時間と、ここで流れる時間とが、いま同時に存在していることが、私には不思議に思えた。佐藤さんはゆったり構えているように見えて、その実、その日も忙しい。私たちと別れたあと、福島市まで行くという。昼食を終え、車で風土館まで戻り、佐藤さんとお別れをした。それぞれ購入したお酒をお店に預けていたのでピックアップして、私たち4人は、鈴木薫さんの車で次の目的地に向かった。今回は聖徳太子の「像」を巡る散策だ。
鈴木薫さんと私はこれまでも、機会があるごとに縄文や古代に関する散策をしてきた。その中で「聖徳太子」はひとつの大きなキーワードだ。この日は鈴木さんの提案で、喜多方市塩川町の「金川寺(きんせんじ)」にある聖徳太子の木像(福島県重要文化財・木造聖徳太子立像)に会いに行くことにした。金川寺は八百比丘尼伝説で有名なお寺である。八百比丘尼伝説は全国津々浦々に残されているが、要約すると、竜宮でも珍しい九穴(くけつ)の貝を食べてしまった八百比丘尼が800歳まで生き、全国を巡りながら人々の平和と安泰を祈ったということのようだ。金川寺では運良く住職のお話しも伺えた。本堂にある聖徳太子像は凛としていた。だが、八百比丘尼について私は何かマジカルなもの、清浄ではない何かを感じ、少し気持ちが悪い思いを持った。
金川寺をでて、次の目的地に向かった。会津若松市にある「経沢守屋(へさわもりや)神社」だ。名前からして物部氏の関係の神社であることがわかる。物部守屋が蘇我馬子と厩戸王子(聖徳太子)に殺された時に、守屋の娘がこの地に落ち延び両親の骨を埋葬し祀ったとされる。その後、蘇我入鹿に追われた山背大兄王が娘を頼ってこの地に来たが、娘は追っ手と勘違いし自害して果てたという悲しい伝説がある。この経沢の地に、ある時から聖徳太子像が祀られるようになると、経沢の村の住民が仲違いをはじめ刃物沙汰のトラブルが続いた。行者の見立てで聖徳太子像を別の場所に祀ることにより、村は平和になったということだ。この神社は猪苗代湖の近くにあるのだが、ぐるぐると道に迷ってしまいなぜか辿りつくことができず、また日を変えることとなった。
– 会津紀行 2 –
その日私は、会津若松の東山温泉エリアで宿をとった。会津電力の見学のことを簡単にまとめると、八百比丘尼について考えた。八百比丘尼は秦河勝の子孫だ。秦氏は先住民が雷神と水神を祀っていた山に、稲荷神をかぶせて伏見稲荷神社をつくった氏族だ。渡来してからは聖徳太子の側近として活躍し、河勝は丁未の乱で物部守屋の首を取った張本人だ。八百比丘尼伝説の金川寺に聖徳太子像があるのは、整合性はある。経沢村の騒ぎも合点がいく。しかし何かがしっくりとこない。私はもともと秦氏のことは良く思っていないが、聖徳太子のことは良く思っている。違和感は感情的問題だけなのか? 聖徳太子とはいったい何者だったのか。考えながら鈴木薫さんにこの謎についてのメールをしていたら、鈴木さんから「明日、また会津にいくので、経沢守屋神社に行きませんか?」と電話があった。
翌日の午後、白虎隊が自死した飯盛山の入り口で鈴木さんと落ち合った。鈴木さんの運転する車で、私たちは再び経沢守屋神社を目指した。カーナビに目的地が反映されないので、私がスマホのマップを確認しながら進んでいった。いよいよ、目的地に近づいてきた辺りは、素晴らしく開けた空気の通りの良い土地だった。この神社に訪れた人がブログに掲載していた写真と同じように、神社の鳥居の前の田んぼのあぜ道に、大きな木がそびえていた。鳥居をくぐり、古い石段をたくさん登ると、小高いところに社殿がある。ひっそりとした木々に囲まれていたが、もしも森の精霊がいるとしたら、彼らは私たちを木陰から覗いているにちがいない。そんなたたずまいだった。豊かではなくひなびているが、小綺麗にしてある。地元の人たちに大事にされているのだろう。
隠された神、月読命を信仰していたという聖徳太子とは何者なのか。蘇我蝦夷の兄であったという説もある。最近では、有名な聖徳太子のあの絵は、太子を描いているものではなかったとも言われている。乙巳の変で焼失した、太子が編纂したとされる『天皇記』には何が記されていたのか。福島には聖徳太子にまつわることが多くある。聖徳太子の時代の人々が原発を見たら、どう思うのだろうか。何か禍々しさを感じるのではないだろうか。人々は長い歴史の営みの中で、何を得て、何を失っていったのか。会津に後ろ髪を引かれつつ私は東京への帰路についたが、会津若松駅で足止めを食らってしまった。郡山のほうで豪雨となり、在来線が止まってしまったのだ。仕方なく、新幹線に乗るためにバスで郡山駅に向かった。私が移動に難儀していたその頃、鈴木薫さんはいわきへの帰路の途中、郡山方面の豪雨のあとに、大きく美しい虹を見たそうだ。会津電力の戦い、福島の戦いは、私たち全ての戦いだ。
<参考>
『会津電力株式会社』公式HP
https://aipower.co.jp
『大和川酒造』公式HP http://www.yauemon.co.jp
http://www.yauemon.co.jp