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NO NUKES PRESS web Vol.009(2018/09/27)
Posted on by 反原連 on 9月 23rd, 2018 | NO NUKES PRESS web Vol.009(2018/09/27) はコメントを受け付けていません
NO NUKES PRESS web Vol.009(2018/09/27)
NO NUKES! human chains vol.04:ドリアン助川さん ロングインタビュー (聞き手:Misao Redwolf)
福島原発事故発生から7年がたちましたが、原発事故はいまも続いています。事故収束もままならず放射能の放出が続き、避難生活者も5万人と言われています(2018年3月現在)。圧倒的脱原発世論を無視し、愚かな現政権は原発を推進していますが、原発に反対しエネルギー政策の転換を求める人々の輪は拡がり続けています。【NO NUKES! human chains】では、ゲストの皆さんへのインタビューを通じ、様々な思いを共有していきます。
【NO NUKES! human chains】では、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。Vol.04では落合恵子さんからご紹介いただいた、作家のドリアン助川さんのロングインタビューをお届けします。
★古賀茂明さん→吉原毅さん→落合恵子さん→ドリアン助川さん★
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【NO NUKES PRESS web Vol.009(2018/09/27)】NO NUKES! human chains vol.04:ドリアン助川さん ロングインタビュー(聞き手:Misao Redwolf)pic.twitter.com/DyS5PFEF3P http://coalitionagainstnukes.jp/?p=11482
【NO NUKES PRESS web Vol.009(2018/09/27)】NO NUKES! human chains vol.04:ドリアン助川さん ロングインタビュー(聞き手:Misao Redwolf)pic.twitter.com/DyS5PFEF3P http://coalitionagainstnukes.jp/?p=11482
―国家観と人間の基本的ありかた―
Misao:ドリアンさんが原発の問題について気付いた経緯をうかがいたいと思います。以前やられていたバンド『叫ぶ詩人の会』の詩の中に、原発のことがありました。
助川:チェルノブイリ原発事故は大変な衝撃でした。あの事故をきっかけに、原発の問題に向き合っていかなければいけない。みんな、そう思ったはずです。だた、自分の場合はそれ以前に、自分の国家観というか世界観というものがあります。原発問題に限らずボクとぶつかってしまう人は「国はこうあるべきだ」、わかりやすく言えば「国は強くなければいけない、その枠組みの中での人々でしょ」というようなことを言う人たちなんです。
ボクが歌を書いたり小説を書いたりするときに見ているのは、一人ひとりの人間。家族だったり友達だったり。その人間がこの世に生を受ければ、幸せなときも不幸せなときもあるし、うまくいかない日々もあるでしょう。それでも、そういう日々も味わいとして捉えた上で、最大限、生命を充実させて、いろいろな味わいを甘受して生きていく。つまり、人間として生を享受できる、やりきるということが基本だと思っているんです。それをみんなで追求した上で見えてくる枠組みであったり空気というものが、社会だったり国家だったりするのではないでしょうか。
だから、「国がこうでなければいけない」という考え方の人とは逆なんですね。「まぁ、なんとか生きていますよ」「こんないいこともありました」と言える社会を作っていくことが、人間本来の役割だと思っています。しかし、実際にはそうではなく「国がこう決めたのだからお前ら従え」ということが多いわけです。そのひとつの例が、チェルノブイリ原発もそうだし、福島第一原発もそうですけど、あんな事故が起きた後の政府の対応です。
今、被災者の声が出てこないからといって問題が消えたわけでも何でもなくて、みんな完全に泣き寝入りですよね。恣意的な忘却を政府がやらかそうとしている。東京オリンピックなんかも、みんなが言うとおりです。そういうシステムを「まぁ、いいんじゃない」と思ってしまう人とことごとくぶつかるのは、国家観がそもそも違うからですよね。そういう視点で見てきているから、バンドでデビューしてもカンボジアの地雷を踏んじゃったお父さんを歌ったり、やはり個人の何かに向かっていくわけですね。
そう考えたときに、福島第一原発の事故は、あの地域に住む人々にとって、あるいはボクたちにとって、どんな影響を与え、そして、どんな影響を与え続けるのかということは、総論で語ることではないんですね。その地域を自分で歩んで着実に線量も測り、それを毎年やって、そして、そこに住む人々と言葉を交わしていく。自分にはこれ以外の方法はなかったですね。その集大成が、新著の『線量計と奥の細道』なんです。
ボクは、国家には目が向かわず、一人ひとりの人間に目が向かっているんです。たとえば福島では避難の問題がありましたが、補償に動き出そうというのが当然あるわけですよね。ここで農業をできなくなった、住めなくなったと。でも、たとえば同じぐらいの線量で被ばくしていても、北栃木というのはほとんど補償から遠かったりしている。栃木県の県庁所在地は宇都宮なので、那須あたりからはずいぶん開きがあるんですよね。でも、現実は廃業せざるを得ない肉牛農家とか続出したわけですよね。
そこで泣き寝入りをせざるを得ないような人々、そういったところに目が行くんです。問題というのは「国がさ~」ではなくて、彼(農家)個人に起きているわけで、その奥さんにも子どもにも起きているわけです。そこに目を向けるということが被ばくの問題であったり、本当に「このままでいいのか」ということへの検証になるんだと思います。
Misao:私たちは首都でデモや官邸前での抗議などの活動をしていますが、国に目が向いているということですね。また福島原発事故のようなことが起こらないよう、これ以上の被害を未然に防ぐために「原発ゼロに国策を変えろ!」と、政府と社会に対し可視化する取り組みをしています。今お話しをうかがって、同じ原発の問題でも目の向く先が違うことで、取り組みも違ってくるということがよくわかりました。ところで、2011年3月11日に東日本大震災が起きて原発が爆発したわけですが、そのころはなにをされていて、どう感じていたのでしょうか。
―東日本大震災・福島第一原発事故からの1年半―
助川:半分飲み屋にいるような人生ですので、震災当日は原発のことではなくて、ゴールデン街が滅んでしまったのではないかと心配しました。ゴールデン街が崩壊したと思ったんです。うちの事務所のそばに富士見街というミニ・ゴールデン街があるんですよ。事務所にいたときに地震が発生して、揺れがきつくなってきたので向かいの駐車場まで逃げたんだけど、富士見街の何軒かの店も潰れてしまって、マスターとかも死んだのではないかと思って、まず、確認しに行きました。
Misao:ここでもやはり、福島とか原発とかではなく、まずは身近な人に目が向くわけですね。
助川:そうですね。自分の行く飲み屋がボロい長屋みたいのが多いので、その人たちの顔とか散乱している店の状況が思い浮かんで、まず、そこに行きましたね。それから、あの日は娘が就職活動で、初めてハイヒールを履いて銀座に出かけていました。その娘とまったく連絡が取れないので「ワーッ、どうしようかな」と、いろいろな葛藤をしながら事務所と自宅の間を行ったり来たりして。娘とは夜には会えましたけど、買ったばかりの靴を持って素足でズッと歩いてきたそうです。
当日はきわめて個人的なところで動いていましたが、翌日ですよね、被害の大きさと原発のことを知ったのは。それに対してすぐに動いたということはなくて、一般的な反応で申し訳ないのですが、「なんということになってしまったんだろう」と唖然としながら日々がすぎていきました。地震でルーターなども落ちてしまって、メールの通信が戻るまでに4~5日かかったということもあります。通信が戻ると、不安がるみなさんからのメールがすごく来ていて、それに答えていくのに1か月ぐらいかかりましたね。
Misao:ドリアンさんはラジオなどで、人生相談をされていましたよね。
助川:精神的に少し弱い人とかへこんでいる人とか、症状のあるみなさんが頼ってくるので、そういう人たちと話をしているだけで一日が終わっていましたね。みんな助け合わないといけないから、「3~4人までなら避難者をうちの事務所で受け入れますよ」と朝日新聞に書いたら、少し心に障碍があるような方から電話がバンバン来るようになって。ボクもあのときは、毎日が新しい体験でしたね。
Misao:やはり、向き合うのは個人なんですね。
助川:あまりに大きなものは相手にできない。個人ですね、常に。
Misao:震災から1か月はそのように過ごされたのですが、翌2012年に奥の細道の放射線量測定の旅に出られるまでは、どう過ごされたのでしょうか。
助川:ボクはライブをやっているものですから、お客さんに呼びかけて寄付金を募り、その年はライブの収益と寄付金の全部を東北に送るという活動をしました。あるいは詩人たちが集まって、売上げを寄付するアンソロジーの本を作ったり。被災地に行って一緒にスコップを持つということはやらなかったんですが、そういう形ではかかわってきました。詩人のみんなで集まって本を作ろうとしたときに、原発や放射能についてメディアで流れているものとか、政府が発表することとかを「本当じゃないよな?」「どうもこれはやはり違うぞ」などと話しました。メディアも、記者の方は現場でがんばってやれることをやり尽くすと思うんですが、自分がそこに行って人に会って、放射能も実際に測らないと何か納得できないと思いました。
そのころは原発事故から1年も経ち、報道も減ってきていたんですが自分は逆で、1年経ったころに臨界点が来たというか、なにかもうガマンできなくて「やはり行ってくるわ!」という感じになりました。ちょうど、そのころ『奥の細道』を訳しきったところだったので、これはもう奥の細道のルートが、日本のこれまでとこれからの問題を全て内包しているのではないかと思いました。こういう言い方はあなたの前では申し訳ないんだけど、ガチガチの脱原発の活動をやるよりは、半分旅もしながら、なおかつ東北のみなさんにも会って、紀行文として読めるものを将来的に書ければいいなと思ったんです。
余談になりますが、『あん』という小説でハンセン病問題を扱っているんですが、「ハンセン病の患者の苦しみが描き切れていない」「これはエンターテインメントじゃないか」と怒る人もいます。「もっとドロドロした人間の苦しみが、なぜないんだ」とかも。そういう人の気持ちもわかるんだけど、エンターテインメントにしたからこそ、たくさんの人が読んでくれたんですね。自分は作家の立場ですから、みなさんに多く読んで触れてもらえるものを出したい。あとは小説を元にどこまで入っていくかは、読む人個人の問題だという思いがありました。だけどこれについては、小さな自転車に乗って、体張ってやったんです。
―2012年夏・奥の細道への旅発ち―
Misao:50歳のときにこの自転車の旅をしたというのは、正直すごいなと思いました。
助川:8月なのに帽子も被らずにね。
Misao:ドリアンさんが自転車で旅に出た2012年の夏は、ちょうど私たち首都圏反原発連合が呼びかけた『金曜官邸前抗議』に20万人集まった時期なんです。私たちも、いまおっしゃったエンターテインメントのお話しのように、デモの参加者は増えてほしいし、子ども連れの参加者もいたので、参加しやすくなるように「デモ」の敷居を下げる努力をしました。組合の幟旗を下げてもらったり、団体などのチラシ配布をご遠慮いただいたり、社会的に問題のある極左団体の現場での動きに注意したりなどしました。
私たちなりに「デモは怖い」と見られないよう努力をしていたので、私たちのやっていることは小説などの表現活動ではなく政治活動ですが、小説『あん』のエピソードはデモの裾野を広げたいというところは同じなんだなと思いました。6~7月に官邸前抗議の参加者が20万人になって、8月に当時の野田首相と官邸で面談したころに、ちょうど旅をスタートされたんですよね。ドリアンさんの新著『線量計と奥の細道』を読みながら、自分に起きた当時の出来事を思い出して、さらに感慨深いものがありました。それにしても、あの夏は暑かったですよね。
助川:暑かった、暑かった。デモは、「今日ぐらいは頭数で行った方がいいな」と思うときはあるんですけど、基本的に自分は集団でなにかするのが苦手だし、同じセリフを言わないといけないようなときに絶対やらない人間なので、個人的な活動になっちゃうんですよね。「オレにはオレの闘い方がある」という感じで。闘いであると同時に、どのくらい被ばくをしているのかということを明晰にしつつ、そこに住んでいる人たちの苦しみも書き、なおかつ多くの人に読んでもらえるようなものを書くことが闘いなんだなと思って、旅を始めました。
あとは、50歳ということ。50歳というとだいたいジジイの入り口なんですけど、そのときに何ができるんだろうと考えた。不思議なもので、4か月も自転車で旅していると、贅肉がどんどん落ちていくんですよね。旅のあいだも毎晩飲んでいるのに、贅肉が落ちていくな、足腰がしっかりしていくな、と実感しました。そんな個人的な思いもありつつ、たとえば、放射線量がすごく高いところで高校生が運動していて、「え? なんでこんなことが許されるんだろう」「福島市どうなっているんだ?」とビックリするようなことが、やはりあるんですね。
2012年の4か月の旅の後も、どのように線量が変わっていくかを知るために、2016年まで毎年、定点で線量測定をやりましたが、それもまた意義があったと思うんです。放射能の情報は、新聞にもなにも出てこないからね。メディアで報じられる福島や宮城の線量ですが、あれは除染したところで測定していますからね。除染について言えば、福島県は7割が山林ですが、全ての山林を除染することはできないんですよ。福島市の中央部にある信夫山(しのぶやま)はとんでもない数値が出ていたんですが、あれは市のシンボルのような山なので、除染していまでは禿げ山になっています。
Misao:私も2011年5月に、主催者から呼ばれて福島市のデモに参加したときに、信夫山の線量がすごく高いと地元の人から聞いたことがあったのですが、その後のことは知りませんでした。『線量計と奥の細道』で、信夫山が禿げ山になったと書かれていて、当時のことを思い出しました。また、もし全ての山の除染をしたら、山が崩れて災害につながるとも書かれています。
助川:福島の山を除染しようとしたら山を裸にしていくしかないわけです。今年の夏は記録的な高温が続き、岡山や広島、愛媛など西日本で豪雨災害がありましたよね。山を裸にしたところに豪雨が来たらどうなるんだ、という話なんですよね。どこから手を付けたらいいかわからないし、福島第一原発の汚染水を海に流そうとしたり、政府は何を考えているのか。
―ナチス法である安倍政権の「緊急事態条項」―
Misao:いま私がもっとも憤っていることのひとつが、福島県内のモニタリングポストを減らそうとしていることです。約3600台のうち、約2400台を撤去する方針を原子力規制委員会が決定しましたが、もちろん撤去に反対する自治体もあります。東京オリンピックの聖火ランナーが福島から出発するので、モニタリングポストを隠したいのではないしょうか。安倍さん的には、福島原発は「アンダー・コントロール」ですから。福島原発事故をなかったことにして隠そうという政府の姿勢がうかがえると思います。
助川:チェルノブイリですら、5ミリシーベルト超えた地域は強制避難ですよね。たしかに、それまでの1ミリシーベルトを超えたからといって人体への影響がどうという話ではないんだけど、レントゲンなどをあまり使わせないために、一応、1ミリシーベルトは超えてはいけませんよ、と目安にしていたわけじゃないですか。それを20ミリシーベルトまで上げたでしょ。こんなことは、まさに生きている人間のことを何も考えていないわけです。なにがそうさせているのかというと、産業とか経済の人たちの感覚なんですよね。ボクにはそういう発想や「富国強兵」の理念はない。
Misao:民主党政権にとっても原発事故への対応は初めての経験で、御用学者も含め専門家の意見を聞くしかなくて、判断ミスをした部分もあったと思います。また、これまで原発推進してきた自民党のケツを拭かされているようにも見え、半ば気の毒というか。だれもやったことがないことを日の浅い政権でやっているわけですから、どうしても悪いところが目立ってしまいますが、事故当時は安倍政権ではなく菅政権でよかったと思います。民主党政権が2012年秋に、「2030年代原発ゼロ」を決め、脱原発に緩やかに舵を切ったと思ったら、政権交代して原発推進に回帰してしまいました。
安倍政権になって、福島原発事故がなかったかのようにされてきています。福島とちゃんと向き合えば、原発推進などできるわけがありません。民主党政権はデモが巨大化し、こちらがアプローチしたら私たちを官邸に招き入れ話を聞きました。安倍政権なんて、2015年の安保関連法のときに反対する人が国会前に大勢集まったのに、それを無視して強行採決をしました。今日はオウム真理教6人の一斉死刑執行、この前は7人一斉執行でした。「異常」を超えて「猟奇的」政権だと思います。ドリアンさんは安倍政権をどう見ていらっしゃいますか。
助川:この前、豪雨警報で11万人に避難指示が出ているときに宴会をやっていた人ですので。しかも、被災地にどんどん被害が出ているときに、SNSに宴会の写真をアップして喜んでいる人たちですから。市町村の役場の人は、なにか警報が出ると役場に詰めなければいけないので、その日は飲めないですよ。しかも、死刑執行の前夜ですよね。それで笑顔で飲んでいられるというのは、ちょっとボクには考えられない。このことだけではなく、原発にしても軍事にしても何もかも、ことごとく嫌なことを彼らは続けてやってきています。
もっと言ってしまうと戦前に戻るような憲法の話もそうですし、もっともヤバい「緊急事態条項」は、国が窮地に陥ることがあれば、一切の法律を停止して内閣が代わりますという、要するに「お前らの全ての人権を奪うぞ」ということですよね。これは完全なナチス法なんですよね。そういう、ことごとく嫌なことをこれだけ繰り出してきているのに、彼らが失脚しないのは4割前後の人が支持しているからで、ここが根本の問題なんです。政権を支持している4割の人。それから、私たちがそれらについて批判すると攻撃してくる彼ら。これが、ちょっとよくわからないね。
―幸せこそ最大の勝利である―
Misao:私だけではなく、いまや、脱原発は安倍政権がなくならないと果たせないとみんな思っているんですが、ただ、政権を支持している人が4割近くいる。ここが根本の問題というのは同じ意見なんですが、これにはどうすればいいのでしょうか。
助川:それにはやはり、それぞれの持ち場でそれぞれの闘いをしていくしかないわけです。私であればハンセン病問題の小説を書いたり、身を挺して旅したことの記録を出版したり、こういうことでしかないわけですよね。「原発推進派はあなたの本なんか読みませんよ」と言われてしまえば、それっきりですが、では何もしなければいいのかと言われればまったくそうではなくて、こういうことの連続で、ボクたちはこう思うと主張していくこと以外の方法はないです。これが、通じなくなると内戦になってしまう。
Misao:そうですよね。私たちは、ドリアンさんのように書いて広げられるような立場である人もいますが、ほとんどはそうでない人たちが集まって声を上げていています。私たちはどう思っているかということを表わしておかないと、ないものになってしまうということで、抗議活動を続けているわけです。ドリアンさんとは手段が違っても、デモに来ているみなさんも、主張を続けなければいけないというところでは、気持ちは同じではなかと思います。
助川:ただ、最大の勝利とは何かというと、相手を打ちのめすことではなくて自分たちが幸せになることなんですよ。自分たちの幸せが最大の勝利なんです。たとえばヘイトをする人たちがいるじゃないですか。主に彼らがヘイトしているのはアジアの国々ですけど。あいつら、アメリカとか英国には弱いですから。じゃあ、彼らと向き合って闘って打ちのめすことが必要かというと、そうしたい人はそうすればいいんですけど、ボクらは中国人の友達とも韓国人の友達とも楽しく過ごしている。毎年行き交ってすごくハッピーな日々がある。この幸せにはかなわないんだよね。
だから、問題は一体どこにあるのかを考えたうえで、いわゆる安倍的なモノに追随していくのがあなたの人生の幸せなのか、そうではないのではないかという部分で、ボクらが本当に幸せに生きるということを実現していくという、これ以上の勝利はないんですね。原発やめようよ、と言っているボクらが根っから幸せな顔をしているべきだし、教育勅語が出てくれば、その時代の人たちよりも、ボクらがいかに幸せであるかということを、なんとなくではなくて、そうであるということを、身をもって証明していかなければいけないと思うんです。幸せこそ最大の勝利であるというのが、ボクのひとつのテーマです。
―新著『線量計と奥の細道』―
Misao:今年7月に出版された『線量計と奥の細道』について、お話しをうかがいたいと思います。旅の中で様々な場所で様々な人との出会いがありますが、その中で、特に心に残っていることを教えてください。
助川:福島の養護施設で、知的障碍の子たちの面倒をみている学園があるんですよ。そこの子どもたちは、知的障碍に加えて親からの虐待や育児放棄など二重の苦しみを受けた子たちなんです。その子たちが寝泊まりもしているところが、強烈な線量にさらされたわけです。夏だというのに外に出ることもできないし、エアコンも使えない。食べられるものも制限されてしまう。何が起きているかもよくわからずに、猛暑に苦しんでいる。しかし、その学園が移転することもできないわけです。その場所から出ていくことができない状況で、誕生日は祝うものだと初めてわかったような子たちが耐えている。
それを見て、その子たち一人ひとりの人格とか人権がまったく認められていないのが、この社会の一部なんだと実感しました。人権とかそういう言葉はやたら出てくるし、簡単な言葉になってしまってはいますが、それが失われることがいかに酷いことなのかということを痛感しました。自転車でどこを走っても子どもの姿が見えない。原発事故の翌年ぐらいまで福島の親は子どもたちを外に出さなかったから、どこの公園に行ってもガラーンとしていました。これはチェルノブイリの写真と一緒じゃないか。原発事故が起きると、こんなことになってしまうんだと。
それから、福島市の信夫山に行ったときに、1.6ミリシーベルトの線量が出ていたところのすぐそばの高校で、土煙を吸いながら高校生が体操しているわけです。あの子たちが、十数年後にお父さん、お母さんになったときに、もし先天性異常のある子どもを産んでも「因果関係は認められません」となっちゃうわけでしょ。実際にいま、福島県内の200人近い子供たちが甲状腺ガンになっていて、それを御用学者たちが寄ってたかって、「これは調査したからこれぐらい出たんです」と言っていますね。「それを言うなら他県も全部調査して比較しろよ」と言いたいのですが、彼らはそれはしないわけじゃないですか。
ことごとく大人が腐っているなと痛感したのが石巻で、この旅のひとつのピークでした。石巻の小学校なんですが、津波のときに起きた火災で真っ黒焦げで残った校舎があるんです。それが1年半ほったらかしにされていて、まわりは津波にのまれて荒れ地のようになっている。石巻の状況も全体的に酷かったので、重い気分のまま自転車を漕いでそこに行ったら、焼け焦げの校舎の前で小学校2~3年生の子どもたちが、ユニフォームを着て野球をやっているんですよね。それまで、この旅で泣いたことは一回もなかったのに涙が出てきましたね。
復興のために世界中から集まった、義援金の財源の分配がありますよね。これには優先順位が必要で、1年半経っても行き届かないところはあるでしょう。求められるものから優先的にやっていくのが道理ですから。でもさ、なんで被災地に集まってきたお金から「もんじゅ」に40億を出すの? 優先順位として「もんじゅ」が先で、この子たちはほったらかし? 焼け焦げの校舎に幌をかけるわけでもなくです。まさに大人が、この子たちにどんな未来を作っていきたいのか、その視点がまったく欠けている国なんだと感じました。
Misao:悔しさの涙でしょうか。
助川:悔しさと無念と、それから当然、自分たちの世代や上の世代への怒りもありますよ。「もんじゅ」なんて、もうどうにもならないとわかりきったことじゃないですか。世界中で研究を断念しているものを、いまだにまだやると言っているわけです。経済界や日本会議にそそのかされて。
Misao:その石巻の小学校での情景を見て旅のピークに達したり、様々な場所や人に接する中で得た感触や思いがたくさんあると思いますが、旅の後でその体験がどう変化していくかとか、またはまだ消化し切れていないとか、あるいはもっとやるぞ、というモチベーションになったりとか、旅から今につながることはなんでしょうか。
―旅をすることで見えてくるものがある―
助川:この次は、被ばく地の農家の小説を書こうと思っているんです。ボクは仕事があまり早くないので、口約束だけで終わっているのもあるんです。もちろん、約束したことはやっているんですけど。だけど、あくまでも個人の生活に目を向けて、個人の感覚で、被ばく地の農家の小説を書こうと自分で決めています。モデルになった農家に嫌がらせがある可能性があるので、地名ははっきりさせませんが、被ばくした農村地帯ということは、もちろんはっきりさせて書こうと思っています。
Misao:農業といえば、友人がいわき市で「いわき放射能市民測定室 たらちね」の事務局長をやっていて、彼女から地元の話を聞く機会があります。家庭菜園をやっていたご年配の方が、孫に野菜を食べさせてあげられなくなったということで自死された話を聞いたことがあります。落合恵子さんのインタビューでも、有機栽培のキャベツ農家の方が、出荷できなくなったキャベツの前で自死されていたというお話しも聞きました。
私の目は国策とか国に向いていて、腐った社会システムを変えていくには原子力ムラがなくなることはかなり大きいと思い、そのために2006年頃に反原発運動をはじめました。しかし、3.11原発事故の後は、被ばく地の人、被ばく地の農家の人の背負わされたことをビリビリと感じ、これ以上そういうことが起こらないよう、やはり原発をなくさなければと強く思っています。
助川:経済からみても雇用からみても、実は原発なんかやめちゃって、再生可能エネルギーをみんなで作っていった方がよほど回るんですよ、世の中、社会が。
Misao:そうですね。いまは世界的にも、太陽光発電もコストダウンしてきているんですよね。
助川:だから、やらせないように、やらせないようにしているでしょ。ほんの一部の人間の利益のために。
Misao:原発はいらないという世論の方が圧倒的じゃないですか。だけど、ほんの一握りの人たちの、権力の座にいるような人たちの意思で、多くの人の思いとは違う方向に、原発だけでなくいろいろな嫌なことが進められています。そんな中でドリアンさんは、今後も今のようなスタンスで活動されていくのでしょうか。
助川:今後どうなるかは、なにも言い切れませんけどね。いきなり、それこそ全部やめて農家をやる可能性もあるわけだから。ただ、自分が物語を書いたり、歌を作ったりすることの根底には、一人の人間であるという意識があるので、その部分は変わらないと思いますね。
Misao:今回の作品(『線量計と奥の細道』)について、メッセージがあればお聞かせください。もちろん、小説を読めば良いのですが、あえて言うとしたら…。
助川:こう言っては語弊がありますが、でもあえて言います。旅をすることで、見えてくるものがあるんですね。なにもそんなガチガチに原発のことを考えて、頭をいっぱいにすることもなくて、被ばくして農業を辞めてしまった人たちの一人にでもいいから会いにいってみよう、あるいは「たらちね」のがんばっている人に会いにいってみようとか、何かひとつ目標を作って。あとは別にいいんですよ、福島のおいしい酒を飲みに行こうで。
そういう旅を毎年1回でも2回でもやっていると、自分の中の大きな柱になってきて、一人ひとりが幸せになるためにはどうしたらいいんだろうという思考にも結びつきます。ボクは50歳のときにあの4か月にわたる旅をして、とてもよかったんですね。やはり、行かなければわからないこと、見えないことはいっぱいあるし、そこで見えてくる自分の可能性というものもあるわけです。だから、ボクらが何か問題を提起したいと感じるときは、その場所に行ってみるべきだと思います。
―風評と実害をはっきりとわける―
Misao:この本(『線量計と奥の細道』)を出すかどうか悩んだうえで出すことになったと経緯も書かれていましたが、奥の細道の旅に出るときに、書籍化の構想はあったのでしょうか。
助川:半分はあったかもしれません。最初は仲間たちに見せるためネットのブログに掲載するつもりで、「ちょっとおれ、まず行って調べてくるわ」という感じで旅に出ました。結果的には本になりましたけど、放射線量の数値をあからさまにしていくということには、葛藤がありました。
桃の農家の人たちにしても、木の皮を剥いで除染して実った桃も全部捨ててきて、ようやく基準値以下の桃ができたけど、それでも売れないわけですよ。炎天下、お母さんたちがパラソルの下で国道4号線沿いで売っているのを見ると、「ここはまだ汚染されていますよ」と、人間として、そんなこと言っていいのだろうかとすごい葛藤が渦巻きました。だけど、よくよく考えると、だからこそ、このお母さんたちはいまこんな苦労しているわけですよね。迷ったけどもあらわすべきだと思いました。
Misao:私は友人の「たらちね」事務局長の鈴木さんと2011年に数回、いわき市で反原発のデモをやったんですね。1回目のデモで一次避難所の前を通ったときに、避難している皆さんが窓から手を振ってくれたんです。通行していた男子学生たちも、デモ隊に飛び入りしました。そのときに私は、原発事故のために避難した人たちが原発を嫌だと思うのは当然で、こうして声を上げることに同意してくれていると単純に思って、このまま東京で活動を続けようと思いました。
『金曜官邸前抗議』に、夫と一緒に浪江から東京に避難してきた女性がほぼ毎週参加しています。「浪江に帰りたい」と毎日泣いて泣いて、いつ死のうか、いつ死のうかと死ぬことしか考えてなかったそんなときに、友達に「官邸前にいっぱい人が来ているから、あなたも出ておいで」と言われて参加したそうです。「みんな私たちのために集まってくれている」と感じ、勇気が出てきたと。一方で、「原発反対と言っていることが風評被害につながる」という、悪意のある攻撃もありました。
助川:風評と実害ははっきりと分けないとね。
Misao:そうなんですよね、そこがあまりにもあいまいです。『金曜官邸前抗議』のピーク時には、いろいろな著名人から誹謗中傷やデマを流されました。安倍官邸から何か手が回っているんじゃないかと勘ぐっていましたが。デモの後にはゴミがいっぱい出ると、いかにもデモ参加者が非常識であるかのように、アルピニストの野口健さんに書かれたりとか。私たちは道にゴミは捨てないし、デモの後にはスタッフが、ゴミはないか見て回っていました。
ドリアンさんの葛藤は、現地を知っているがゆえの葛藤ですよね。だけど私は、書籍化して発表することは前向きだと思いました。「たらちね」の仕事も、放射能汚染の数値を測って知るということが主柱で、奥の細道の測って歩く旅と同じなんです。放射能は不可視なので分裂を招きますが、数値を可視化してテーブルに上げると話ができるじゃないですか。「これは危ないから食べないで!」とヒステリックに宣伝するとか一切ないところで、ただ淡々と手仕事として測って知らせていく、ということなんですよね。
助川:2016年まで定点観測すると、当然、除染しているところは下がっているんだけど、でも、除染しても3年ぐらいするとまた増えてしまったり。それから、2012年より増えている場所もあるんです。里山で、山から葉っぱが落ちてくるところとか。そういうところは、エッ?と思うほど増えています。でも、そこは観光地だったりして、子どもが葉っぱで遊んだりするわけです。セシウムの動きというものに対しては、時が経ったからもうなくなっているだろうなんてとんでもない話で、実はまだまだぜんぜんなんですよ。
Misao:山の汚染はどうしようもないですよね…。
助川:すごいですよ。
Misao:ドリアンさんがおっしゃっているように、すべての山を信夫山みたいにするわけにはいかないし…。
助川:だから、無理なんですよ。除染なんてのは。
Misao:結局、除染をしてもグルグルとエンドレスというか…。トリチウムやストロンチウムという核種も飛散しているらしいという話も聞くので…。考えるとドドーンと気分が落ちます。
助川:そうですね。でも、そういう立場にいる自分は幸せだと思った方がいいですよ。明確な意見を持っている。未来像がわかる。それは幸せだと思った方がいいです。そしていま、多くの仲間たちがいるということを。この星の土地を汚して利益を貪っているやつらより、はるかに幸せだと思った方がいいですよ。
―有限な人生だから大事にする―
Misao:これまでにもこういう質問は幾度もされていると思いますが、好きだったり、影響を受けたバンドやアーティストはいるのでしょうか。
助川:いますよ、パティ・スミスとかルー・リードとか。ボクらのバンドは、普通に歌う曲もあるし歌わない曲もあって、淡々と語ったりするんです。普通ではないことをしたくてしょうがなかったという部分もありますが、歌なんだからコードがあってメロディーがあって当たり前じゃん、という、その当たり前のところが本当に当たり前なのかと疑ってみる。カンボジアで地雷を踏んじゃったお父さんの歌は、メロディーにはならないよね。重いバックはほしいけど、これは淡々と語っていきますという風に。
音楽の垣根を取っ払ってしまって、ひとつの表現を作り続けてきたんです。自分の生活の中でも、歌うヨガなんてことをやっています。ヨガをやる人はいっぱいいるし、歌の練習をする人はいっぱいいますよ。でも、ヨガをやりながら歌うやつはあまりいないだろうね。これ、循環器を鍛えるにはけっこうよくて、簡単なヨガをやりながらカンツォーネ歌ったりするんだよね。人からみたら錯乱したのかと思われてしまうけど、これが自分のやり方なんです。そうやって、自分の生活や創作物をデザインしていくのがいいと思う。そのひとつにバンドがあったということです。
Misao:私も寝る前にヨガをやっていますが、歌うヨガをやってみようかな…(笑)。ところで、『叫ぶ詩人の会』は、私が知る限りですが、ほとんど歌はなくてポエトリー・リーディングというか詩を叫んでいたのですが、今やられているバンド『アルルカン・ヴォイス・シアター』では歌っていますよね。それはご自分の表現方法が変わったということなのでしょうか。
助川:そうではなくて、昔も歌はいっぱいあったんです。ただ、打ち出し方というか、このバンドは他のバンドとどう違うのかと、どうしてもそこをフューチャーされたりしていたんですね。普通に歌う曲もいっぱいありました。あったんだけど、これは語りだなとか。『魚をたべよう』はラモーンズ路線でいったりとかいろいろなパターンがあって、そういう意味ではいろいろな実験をしたバンドだったと思うんですよね。
Misao:『叫ぶ詩人の会』は、すごいインパクトがありましたよね。
助川:まったく売れませんでしたけどね。
Misao:そうですか? 当時、かなり有名なバンドというイメージがあったんですが。
助川:そんなことないですよ、物好きはいっぱい見に来ましたけど。
Misao:私は音楽が好きだったので、そういう人たちの間では確実に広がっていたと思います。また、ドリアンさん個人として、テレビに出られたりして知名度も上がりました。しかしそこに安住することなくニューヨークに移住されたり、自分の人生に呼応するかのように小説を発表されたり、ご自身でご自分の人生をハンドリングされているんだなというイメージがあります。
助川:いやいや、ようやくよ。ようやく、ちょっと、まぁこんな感じかなという道が見えてきたところです。これもわかりませんよ。だって、これも平均寿命のことを考えて言っているわけで、あと200年も生きられるとなったら、また風に吹かれてどこかに行ってしまうかわかりませんよ。
Misao:私も一時期ニューヨークにいて、その後も放浪して、いろいろな職業について。いまやっと、ボンヤリと道が見えてきたところですが、これが人生200年だったら、もっと流れていくのかもしれませんね。有限と思うから、自分であえて杭を打っていくという感じですよね。
助川:それだけ時間があったら、一丁暗殺でもやってやろうかと思うかもしれませんね。有限な人生だから大事にしなければいけないので、そんなことはしないですけどね。
(2018年7月26日:東京都調布市にて)
ドリアン助川 <プロフィール>
1962年、東京生まれの神戸育ち。作家、朗読家。早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒。日本ペンクラブ理事。長野パラリンピック大会歌『旅立ちの時』作詞者。放送作家を経て1990年「叫ぶ詩人の会」を結成。ラジオ深夜放送のパーソナリティとしても活躍。若者たちの苦悩を受け止め、放送文化基金賞を得る。同バンド解散後、2000年からニューヨークに三年間滞在し、日米混成バンドでライブを繰り広げる。帰国後は明川哲也の第二筆名も交え、本格的に執筆を開始。著書多数。小説『あん』は河瀬直美監督により映画化され、2015年カンヌ国際映画祭のオープニングフィルムとなる。また小説そのものもフランス、イギリス、ドイツ、イタリア、レバノン、ポーランドなど十二言語に翻訳され、2017年、フランスの「DOMITYS文学賞」と「読者による文庫本大賞(Le Prix des Lecteurs du Livre du Poche)」の二冠を得る。
<予告>NO NUKES! human chains vol.05
このインタビュー・シリーズでは、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。ドリアン助川さんからは、原発メーカー訴訟弁護団共同代表の島昭宏さんをご紹介いただきました。
このインタビュー・シリーズでは、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。ドリアン助川さんからは、原発メーカー訴訟弁護団共同代表の島昭宏さんをご紹介いただきました。