NO NUKES PRESS web Vol.037(2021/01/28)

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NO NUKES PRESS web Vol.037(2020/01/28)
 
Opinion:原発事故から10年 - 金曜官邸前抗議・参加者の声
 
寄稿:廣瀬俊介(環境デザイナー)・遠藤妙子(音楽ライター)・唐澤昭雄(会社員/NO NUKES MORE LOVEメンバー)・仲内節子(商社九条の会・東京世話人)
 
首都圏反原発連合の活動の軸である『再稼働反対!首相官邸前抗議』(金曜官邸前抗議)は、参加者の皆さんと一緒につくってきた場といえます。今年3月末の活動休止を前に、参加されてきた皆さんにご寄稿いただきました。
 

【NO NUKES PRESS web Vol.037(2021/01/28)】Opinion:原発事故から10年 -金曜官邸前抗議・参加者の声- 寄稿:廣瀬俊介(環境デザイナー)・遠藤妙子(音楽ライター)・唐澤昭雄(会社員/NO NUKES MORE LOVEメンバー)・仲内節子(商社九条の会・東京世話人) http://coalitionagainstnukes.jp/?p=14591

 
 

– 金曜官邸前抗議は、民主主義を学び実践する場だった –
 
廣瀬俊介(環境デザイナー)
       
金曜官邸前抗議の(ひとまずの)終わりに向けて、2011年の原発事故からこれまでの私の心境、思考、行動の変化を、一つの例を示すために思い返してみることにする。読者の方々には、ご自身の10年間そして金曜官邸前抗議との9年間を振り返るきっかけとしていただけたらと思う。
 
あの日、福島から乗った東京へ向かう新幹線の車両が、那須塩原の手前の高架橋の上で、下から強く突き上げられて急停車した。断続的に揺れる車中で、東京電力福島第一原発の事故を知った。
車両を出られたのは地震発生から11時間後だった。翌日の深夜、市川の自宅へ戻り、その翌日の夕方、名古屋へ移動した。放射性物質の拡散に加えて、自宅近くの大型店舗の食料や水や燃料が売り切れているさまから人々のパニックも恐ろしくなってのことだった。
名古屋から知人の住む飛騨へ移動し、4月末まで自主避難生活を送った。確かな情報を探して原発事故の影響を推し量ろうとし、その上で東北地方の知人たちと連絡を取り合って飛騨の有志と津波被災地に救援物資を運ぶなどの支援活動を行った。
放射性物質拡散から逃げて済ませられるものならそうしたかったが、置いては行けない人々がいた。事故と原発と放射性物質について調べ、学び始めた。原発事故の被害を可能な限り小さく抑え、同様の破局が他の地域に起こらないようにするために、自分に何ができるかを考えるようになった。
 
自分の専門は環境デザイン、ランドスケープデザインで、それは土地利用技術の一つだ。つねづね経済の優先がいわれるが、他ならぬ経済とそもそも人間がつくる社会が持続可能になるためにも、社会を持続可能にする土地利用技術が本来必要だ。原発は、そうではない。事実、国土の一部をほぼ喪失した。だから、自分は専門家として、専門性を拡張させてこの問題に言及しようと論理立てた。
しかし、シンポジウムでの発表や震災後に友人の勧めで使い始めたソーシャルネットワークだけでは、発信が広くとどかなかった。無力感を味わった。2011年9月、初めて反原発デモに参加した。何も有効なことができない自分を責める日々が続いていたが、6万もの人々が集まり(主催者発表)、その中に自分もいられたことで、原発事故の後初めて自己肯定ができた。
 
2012年3月、金曜官邸前抗議が始まった。主催者からのツイッターでの呼びかけでそれを知り、参加した。主催者と参加者の存在が心強く感じられた。
抗議開始から少し経って、参加者が所属する政治団体などののぼりや旗の使用をめぐって議論が起きた。主催者は、それらののぼりや旗の使用に日本人一般の政治的忌避感が向けられるのを防ごうとした。公開議論がツイッターを介して行われた。主催者は参加者が増えなければ自分たちの目的は果たせず、抗議の外からの自分たちの見られ方を考えなければならないと、のぼりや旗の使用を求める人々と対話を重ねた。その様子を追いながら、日本で行われてきた社会運動について自分も学び、2011年の震災と原発事故の後の社会運動の意義とあり方を自分なりに考えるようになった。
抗議の場では、主催者からも参加者からもさまざまな情報や見識、感情等々がスピーチによって示された。そこからまた学ぶことがあり、考えさせられ、思い返され、発見することがあった。原発に関する問題に、自分が継続して行っていた津波被災地の支援活動を通して次々に知った、その他の日本の社会問題と通底するところがあることにも気づいた。
 
自分が、金曜官邸前抗議を選んで参加していることに自信を持った。自分も、ソーシャルネットワークでこの抗議の存在と意義をひろめることを始めた。抗議の現場で写真を撮り、複数の外国語を併記し、抗議の根拠とした報道記事などの文献の引用や要約を出典と共に示して。抗議参加者の一人となり、それを題材としてソーシャルネットワークで情報発信が行えることから、抗議への参加の動機付けが二重になった。9年弱それを続けて、ツイッターでは毎回それなりの数がリツイートされ、フェイスブックでは各回の反応の数が当初20程度だったのが100を超すようになった。
2012年末の民主党から自民党と公明党への政権交代以来、集団的自衛権の行使に係る憲法解釈の変更をはじめ、市民の対応が必要な問題が飛躍的に増やされた。首相官邸前で民主主義を学んだ参加者もまた各々が喫緊ととらえる課題へ対処し、金曜官邸前抗議の参加者は時に300人強までに減ることになった。しかし、これを続けることで3.11以後の日本の社会運動の軸の一つを守ることにつながると自分は考えたし、それは他の参加者も同じだったのではないか。
 
原発事故が起きて以来、未来を悲観することしかできなくなっていた。しかし、金曜日に首相官邸前へ通いながら、未来は自分たちの手で変えられると思えるようになった。金曜官邸前抗議は、私にとって民主主義を学び、実践する場だった。抗議を主催した首都圏反原発連合と抗議に参加した人々への感謝と、私たちがこの9年間共に成してきたことを心に留めて、これからも日本で市民の抵抗の文化を創り育てていく一人として、私はありたい。
 
 

廣瀬俊介 <プロフィール>
環境デザイナー。1967年、千葉県生まれ。2019年に栃木県益子町へ移住。2003年から2014年まで、東北芸術工科大学准教授。風景/景観と風土の研究の上に、地域の自然に人間が働きかけて風土が形成される営みの一助となる環境デザインを探究する。特に2011年の東日本大震災以降は、地域再興・存続を望む住民有志の活動に各地で協力してきた。
そうした専門領域における研究、実践をもとに、首都圏反原発連合が主催した国会前集会では、「脱原発の環境デザイン」(2017年7月7日、2018年7月7日)、「広場をつくる」(2019年11月10日)と題したスピーチを行った。また、寄稿「脱原発の地域再生はどう可能か?」が、『建築ジャーナル 2020年11月号』(企業組合建築ジャーナル)に連載記事「震災十年の検証」第3回として掲載される。著書に『風景資本論』(朗文堂、2011年)。
 
 

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遠藤妙子(音楽ライター)
 
首都圏反原発連合の発足は2011年9月だそうだ。金曜官邸前抗議は翌2012年の3月にスタート。自分のTwilogで官邸前を検索してみたら、私は一回目に行っていた。「原発いらないと思う人、抗議したい人、いろいろ考えて悶々としている人、何かきっかけがほしい人。お時間あればぜひ!」とツイートしていた。
金曜官邸前抗議は抗議行動とか市民運動というものをグッと身近に引き寄せてくれた。運動家とか活動家じゃなくたって声をあげていいと教えてくれた。日本の近年の抗議行動のスタイルは、金曜官邸前抗議の以前/以後でさまがわりした、と言っていいだろう。金曜官邸前抗議は新鮮で斬新で、同時に日常的で恒常的だった。
自分のTwilogをたどると毎週のように官邸前に向かっていた時期から徐々に回数は減っている。減っていったが東電や政権がおかしな動きをしたら抗議しに行ける場所がある。このことがどんなにありがたかったか。どんなに励まされたか。 
金曜官邸前抗議は、うっかり他人事のようにしてしまっても自分は当事者であり、様々な当事者がいることを教えてくれる。日常のことだと思い出させてくれる。抗議行動は一区切りだが、首都圏反原発連合のwebサイトは続き、また指針となってくれると思っています。原発反対!
 
 
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唐澤昭雄(会社員/NO NUKES MORE LOVEメンバー)
 
2012年8月3日午後7時前、私は国会議事堂前の歩道に溢れる大群衆の中にいた。この前週の日曜、国会前や首相官邸前での大規模抗議行動に学生時代の友人が参加していたことを知った私は「そういえば金曜夕方にもやってたよな」「どんなもんだか様子を見に行ってみよう」、かなり軽い気持ちで会社を終わったあと国会前へ向かった。
国会前に着いて本当に驚いた。衝撃的だった。老若男女いろんな人々で歩道が溢れかえっている。従来こういうデモというと労組の人が幟旗でやるというイメージが根底から覆された。皆真剣な表情で手づくりのプラカードを掲げている。
翌週の金曜夕方、再び国会前へ行った。それから毎週金曜は国会前、首相官邸前へ一人で行く日々が続いていたが、ある時、SNSでご縁が出来た高校の先輩のつながりで、今の仲間の方々と繋がることができ現在に至っている。
反原連の活動は残念ながらこの3月で活動休止になってしまうわけなのだが、この活動を通じて醸成された市井の人々が自分たちで声をあげること、原発の問題だけではなく政治のやり方についても集まり、主張し、またデモを行うという動きを定着させたことは大きな一歩であったと強く感じている。
 
 
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仲内節子(商社九条の会・東京世話人)
              
2012年6月の20万人の中に私はいました。震えるような感動を味わいながら。以来、金曜デモに参加し続けたのは原発の害悪を知りながら54基もの乱立を許し大事故を招いてしまった贖罪意識からですが、あの時の熱気に魅せられたからでもありました。
「原発なくせ」「福島かえせ」と叫ぶ時、そこには居ない人たちの分も声をあげていました。友人が描いた脱原発ポスターの赤ちゃんモデル(お孫さん)はもう小学生です。あれから10年近く経っている!
ある時は朗読劇の披露もしました。地下鉄の改札口でリハーサルしただけでしたが大成功。福島から訴訟原告団の根本さんが飛んできてくれ、被災者の想いを福島弁で伝えることができました。台本はその後も活用されています。
千個のキャンドルで「脱原発」の文字をつくりアピールも。『それでも私はデモに行く』というドキュメンタリー番組がつくられ、ギャラクシー賞を獲るという快挙もありました。私たちも登場しています。素敵な仲間がいたからできたことばかりです。
最後に反原連スタッフに感謝の拍手を贈りたい。まだ脱原発は実現していません。これからも一緒に声をあげ続けていきましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 

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