NO NUKES PRESS web Vol.023(2019/11/28)

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NO NUKES PRESS web Vol.023(2019/11/28)
 
NO NUKES! human chains vol.11:西片明人さん ロングインタビュー (聞き手:Misao Redwolf)
 
福島原発事故発生から8年経ちましたが、原発事故はいまも続いています。事故収束もままならず放射能の放出が続き、避難生活者も5万人と言われています(2019年3月現在)。圧倒的脱原発世論を無視し、愚かな現政権は原発を推進していますが、原発に反対しエネルギー政策の転換を求める人々の輪は拡がり続けています。【NO NUKES! human chains】では、ゲストの皆さんへのインタビューを通じ、様々な思いを共有していきます。
 
【NO NUKES! human chains】では、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。Vol.11では石井麻木さんからご紹介いただいた、西片明人さん(ライブサウンドエンジニア/東北ライブハウス大作戦・代表)のロングインタビューをお届けします。
 
古賀茂明さん吉原毅さん落合恵子さんドリアン助川さん島昭宏さん後藤正文さん細美武士さんTOSHI-LOWさん横山健さん石井麻木さん西片明人さん


【NO NUKES PRESS web Vol.023(2019/11/28)】NO NUKES! human chains vol.11:西片明人 @SPC_nishikata ロングインタビュー(聞き手:Misao Redwolf) https://pic.twitter.com/it4q9fqrQg http://coalitionagainstnukes.jp /?p=13183

 
 

ー刷り込まれた光景ー
 
Misao:2011年3月11日に東日本大震災が起こり、その後、福島第一原発が爆発しましたが、当時、西片さんは何をされていましたか?
 
西片:3月11日は仕事で下北沢のシェルターというライブハウスにいて、搬入が済んでリハーサルをやるかという時に地震が起きました。そのとき自分はコンビニにいて、自宅にいた家内と電話で話していましたが、飼い犬が膝元を離れて走って行ったみたいで、家内の「アレ?」という声が聞こえて、「どうした?」という会話をした時に、一気にガツンと揺れがきました。棚の商品がバカバカ落ちてきましたね。
 
すぐに外に出たんですが、電柱がユラユラ揺れていたのを覚えています。「おさまったね。気をつけて、大きかったので余震もあるよ」と話して電話を切って、シェルターに戻りました。お店にテレビがあったので震源を確認したり、各地の映像を見て「これはヤバいね」という話になって。都内の交通網の運行状況の情報も入ってきて、ライブはやらない方がいいということになりました。
 
自分は「やった方がいいんじゃないの」と言ったんですが、結局、主催の判断で中止になりました。それから、バンドメンバーとのんびりとラーメンを食って、店に戻ったときには、もう状況がどんどん進んでいました。都内の電車もマヒしているし、津波が来たという情報がドンドン入ってきて。車で自宅に帰って、家族と顔を合わせて無事を確認できたんですが、そこからですね。東北の仲間に連絡をしました。
 
状況が状況だからすごく心配だったんですが、連絡が取れないかもしれないし、連絡することで迷惑がかかるかもしれないと考えたので、みんなのところにのべつ幕なしに電話をかけるのではなく、落ち着いたら連絡をくれとメールをしました。それと、東京もすごく止まっているなと思いました。コンビニは空っぽになっているし。東京はしょっちゅう揺れている感覚はあったんですが、やはりデカいなと思いましたね。

Misao
:そのときはまだ、福島の原発についての意識はなかったのでしょうか? 当時、爆発した映像をご覧になったと思いますが、どのように感じましたか?
 
西片:地震が起きた時には、原発のことは全然直結しなかったですね。爆発してからも暫くは「そういえば」という感じでした。というのは、原発について無知だったんですよ。それから少し時間を置いてから「どうなるんだろう」と思うようになって、漠然と怖いと思いましたね。果たして東京にいられるのかどうかとか、日本にいられるのか。原発についての知識がないので、自分の思考回路が働かなかったんです。
 
それから何日か経っていく中で、自粛、自粛でライブイベントがどんどん中止になって、仕事ができない状況になってきました。そういう状況の中で、TOSHI-LOWたちが東北に送る物資を集めたりということをはじめていたので、自分も後方支援をやりはじめたんです。オレは発信力がないので、一緒に事務所に詰めて荷さばきなどをやっていました。
 
それから、支援物資の活動のほかに、ワンコインライブをやるために東北に行きました。最初は3月に一回やったんですが、4月11日に盛岡に行ったんですよね。夜、車で盛岡に向かったんですけど東北道はガタガタだし、規制が入っているし、余震があって盛岡市内が停電になったらやれるかどうか分からない中、行かないと何もできないと思いながら向かいました。
 
盛岡でのライブの翌日に、宮古と大槌に行くことができて、そこで仲間の安否を直に確認できたんです。彼らが車を出してアテンドしてくれましたが、震災の1カ月後で地獄みたいな状況で。自分に何ができるかも分からなかったので、ドンキホーテに行ってゲームとかトランプとか、いろんなものをボストンバッグ二つ分買って、仮設住宅に行って子供たちに配ることしかできなかったですね。被災地の光景が刷り込まれたのは、その後の自分の動き方にすごく大きな影響があったと思います。
 
 

ー『東北ライブハウス大作戦』起動ー 
 
Misao:そういった動きが、『東北ライブハウス大作戦』の立ち上げにつながっていくと思うんですが、具体的なきっかけや経緯を教えていただけますか?
 
西片:それもTOSHI-LOWでしたね。4月の末頃に新宿のライブハウスでbloodthirsty butchersとBRAHMANとでツーバンをやった日の夜に、TOSHI-LOWと外に出て2人で話しをした時に、「いつまで金魚のフンみたいにくっついてきているんだ。なにもしないつもりか」というようなことを言われたんです。その時はケンカみたいな感じになってしまったし、悔しかったですね。
 
Misao:TOSHI-LOWさんは西片さんを買っているから、尻を叩いてきたんですね。
 
西片:だったとは思いますね。BRAHMANと支援活動をしながら、インプットはできているのにアウトプットできていない。被災地に物資を運ぶこともアウトプットではあると思うんですが、ぼくにとってはそうではなくて消化不良を起こしていました。4月11日に刷り込まれたことが大きかったと言いましたが、そのとき仮設住宅や遺体安置所まで行ったんですね。そこは自分の意志とは関係なく、強制的に集めさせられた場所なんですよね。その刷り込まれていた光景、その点と線が結びついた感覚になって、ライブハウスを作ろうと思ったんです。被災地に、楽しむために自分の意志で足を運べ、集まれる場所を。それは自分にとっては自分がずっと育ってきたのはライブハウスだったんで、ライブハウスを作ろうという答えが出たんですよね。
 
そのときのことはよく覚えています。6月12日のパワーストックというイベントのため、ボコボコの東北道を宮古に向かい北上しながら、朝方、ちょうど朝日が昇るときに、「ライブハウスを作ろう」とポコッと落ちてきたんです。その日のライブが終わってすぐ、現地の仲間の太田に打診したら「やろう!」と二つ返事で。そのあと大船渡に炊き出しに行く道中で思いついて、大船渡の仲間にも、一緒にライブハウスをやらないかという打診をしたんですよ。宮古でスイッチがカチっと入っちゃって、グワーっと回り出したんですね。太田には一切言わず、ぼくの中だけで走っちゃったんですけど。
 
その2カ月後の8月のフジロックのときに、アトミックカフェの関係で来ていた、その当時、石巻にボランティア活動で詰めていた「ゆかり」さん(幡ヶ谷再生大学復興再生部の立ち上げ人の一人)に会いました。ライブハウスのことはまだ公表してなかったんですが、「石巻でもライブハウスを作るという動きをはじめるらしいね。石巻にぜひ作りたいという人たちがいるんだけど、話を聞いてやってくれないか」と言われて、会いに行きました。その後、石巻も二転三転して、そのとき会った人ではないんですが、あとになって現れた黒澤が引き受けてくれて、石巻にもライブハウスを作るというくだりになりました。
 
Misao:「ライブハウスを作ろう」とストンと腑に落ちてきて、消化不良は解消されたと思いますが、ほかにどういった感覚があったのでしょうか?
 
西片:切羽詰まったときは、自分の経験や積み上げてきたものしか信用できないのかなと思いましたね。多分、TOSHI-LOWはそれを分かっていたと思うんですよ。TOSHI-LOWが被災地に物資を持っていったときに、「君は何をやっている人なの?」と現地の人たちに言われて「歌をうたっている」と答えたら、「じゃあ歌をうたいにきてくれよ」と言われて、すぐにライブをやりに行った。これってとても単純で普通の流れなんですが、混乱の中では、自分の足元にあることが見つけられないものなんだな、と思いましたね。1カ月半の消化不良の時期が長かったのか短かったのかは、自分には分かりませんけど、自分の中での答えが素直に出た感じがあったんですよね。
 
Misao:2011年は被災地だけでなく東京でさえ、日常とは違う空気感があったような気がします。そういったところで、自分が何をすべきかを見つけるのは難しい部分もあれば、ピッとつながりさえすればパパパっと速く進んでいく。自分は3.11前から反原発の活動をしていましたが、原発事故以降、活動に関してそんな感覚がありました。
 
西片:そうですね、それができることが明確に分かるということが、震災以降の活動から学んだことなのかもしれないですね。原発にしても、自分が20代前半のころはアトミックカフェとかロフトでよくやっていて、大久保さんや同世代の人たちが活動をしていたのに、全然ピンとこなかったんです。言っていることは分かるんですが、結びつかなかったですね。なんでこの人たちがやっているんだろうとか、なんでライブハウスでやるんだろうとか。デモってなんだ? とか思っていました。3.11以降、原発事故にリアルタイムで直面して、やっと繋がってきたという感覚がありましたが、あの頃にもっと学べばよかったな、とすごく思ったりします。
 
 
ー福島に自然エネルギーの野外音楽堂をー
 
西片:立ち上げた「東北ライブ大作戦』から、猪苗代に自然エネルギーの野外音楽堂を作ろうというプロジェクトが派生したんですが、場所選びに2年もかかりました。『東北ライブハウス大作戦』は、爪痕、傷跡が癒えないうちに、そこに来る理由を作らなければと思って、めちゃくちゃ急いだんです。大船渡にいたっては、二転三転して引っ越しもありましたけど、立上げから1年後には宮古、大船渡、石巻の3カ所で店舗をオープンできて、ミュージシャンがライブをやってくれて、インフラが追いついてくるという状況になりました。
 
福島にもライブハウスをと考えたんですが、浜通りにも中通りにも会津地方にもライブハウスはしっかりとあるし、そこにねじ込みたくはない。それから、福島では自然エネルギーで運営したいというのが、ずっと頭にありました。実は『東北ライブハウス大作戦』のライブハウスも、廃油を使って電気を起こせないかと試行錯誤はしましたが、急いでいたし、整っていない部分がメチャクチャあってできなかったんです。
 
Misao:福島といっても広いのですが、どうして猪苗代を選んだんですか?
 
西片:シチュエーションがよかったですね。猪苗代湖の湖畔の天神浜というところに作ったんですが、猪苗代湖のビーチと磐梯山があって、ステージに太陽が沈む、ちょうど太陽のピンスポットを浴びながらのライブ、という感じで。あと、いわきでは是非にという話もあったんですが、ほかのところはよそ者に対してわりと厳しかったですね。何というか、言葉は少し悪いかもしれませんけど、場所選びで福島に行ったときは、少し壁を感じたんですよね。
 
避難区域とか、原発の恩恵を受けている土地と受けていない土地では、温度差をメチャクチャ感じましたしね。原発事故が起きてから、それ見たことか、ということですよ。誘致の恩恵は受けていたけれども、オマエらがハンコを押して原発を呼んだから、いまオレらは住めなくなった、みたいなね。同じ自治体の枠の中に住んでいても、隣り合わせの人たちの立場がまったく違うこともあるわけです。あと意外と福島は軋轢の多い地域で、会津地方と中通りと浜通りは、なかなか融通が効かない間柄だったり。
 
Misao:わかります、それ。多分、浜通りはリベラルで、会津地方は保守的なイメージがありますよね。
 
西片:紐解くと明確にわかるところもありますしね。会津地方は維新で最後まで戦った歴史がある町なので、ぼくもそういう部分を受け入れないと、思い描いたプロジェクトを進められないし、無理やり進めることはできないと思ったんです。その理由をしっかり明確に自分で理解しないと、進むことも止まることも収めることもできない。受け入れなきゃいけないこともあるし、それを天秤にかけなきゃいけないときもあるけど、譲れない質は絶対にある。すごくネガティブな出来事が起きてしまったときに、どうポジティブな捉え方ができるか、ということも学びました。
 
『東北ライブハウス大作戦』をはじめたときにも、同じようなことはありましたね。「ライブハウスを作ります、よろしくお願いいたします」「今週末、人がいっぱい来るからバスを増便してください」と交通会社に掛け合う。「アンタ、作ってから言いなさいよ」と言われる。「大手企業から看板あげたらお金出すよ。でも、その看板をもらったら、その街で商売をやっている人たちが店をたたむハメになる。だからできない。せいぜいがんばりな」と。それを繰り返していたんですが、すごく勉強になりましたね。
 
Misao:2011年から13年頃の反原連(首都圏反原発連合)の官邸前抗議のピーク時には、賛同者のほうが圧倒的に多かったのですが、反面、私は前後左右からボコボコに叩かれていました。私はそれをポジティブに捉えなおそうという気持ちになれなかったし、それをポジティブに捉えようと思いつきもしませんでした。人間の持ちうる暗黒面を垣間見た期間にはなりましたが、それ以上でも以下でもないというか。
 
西片:自分は仲間がいてくれたので救われましたね。ぼくには発信力がないわけじゃないですか。だれだよ、オマエはという話で、どこのどいつがやっているのかを知ってもらうためにメディアにも出たし、SNSもはじめたけど、ずいぶん叩かれました。「名乗るほどの者じゃございません」と言ったところで、みんな賛同してくれるのかと思って。そのときに『NO NUKES PRESS』にも出てきてくれている、TOSHI-LOWや細美武士とか、音楽関係の仲間たちがサポートしてくれたんです。活動だけでなく、プライベートなところでも助けてもらいましたね。今でもそうですけど。
 
 

ー『東北ライブハウス大作戦』のこれからー
 
Misao:西片さんは『東北ライブハウス大作戦』立ち上げから1年後には、仲間の皆さんと一緒に、宮古、大船渡、石巻の3地域でライブハウスのオープンにこぎつけるわけですが、ものすごいスピードだし本当に大変だったのではと思います。さきほども少しお話しを伺いましたけど、取り組んでいく中で、難しかったことってたくさんあると思うんですけど。
 
西片:そのときどきによっての壁があるんですが、まずは場所選びですよね。津波に流されて何もなくなってしまった地域なので、どこにでも作れるなみたいな、最初は短絡的な感覚だったんですけど、やはり、何もないので何もないんですよ。本当に何もない、電気もなければ何もないので、ゼロ以下からのスタート。しかも3地域。なるべく早く作りたいというのもあったし、難しいことはたくさんありましたね。まず、その場所選びがあって、次に資金ですね。場所選びに関しては地元の人たちに任せるしかないので、意見を出し合いながら月イチで東京から通いました。
 
資金繰りについては「自分が金を集めるから」と言って、グッズを作ったり募金を集めはじめたんですが、たくさんのミュージシャンたちが賛同してくれて、ホームページに賛同のコメントを貼り付けてくれました。各ライブ会場でグッズを売らせてもらったりもして。そうするうちに、音楽関係の人たちからの資金や機材や楽器のサポートが集まってくるようになりました。あと、これはTOSHI-LOWの案なんですけど、「木札」。グッズを買いに行けない人たちが支援できる方法として、寄付金を振り込んでもらって木札に名前を書いて、ライブハウスの壁に貼るというもの。
 
Misao:「寄付だ!」で「木札」ですよね、いいアイデアだなと思いましたよ。実際、ライブハウスができて運営が始まってからはどういった感じでしたか?
 

西片:今年で7年になるんですが、いま一番厳しいのはブッキングですね。オープンして1~2年目は仲間のミュージシャンたちが行ってくれる回転数は上がっていたんですが、年々、どんどん落ち込んでいきますよね。ブッキングが苦しくなってくる。ライブハウスはやはりライブハウスなので生きていないとダメなんですね。なので、地元のライブハウスに地元のバンドがでるのが一番望んでいるところですね、いま。そういうバンドを育てていければ、生み出していければなぁと思いますね。
 
Misao:震災と原発事故から来年で10年、この間、社会もいろいろ変わってきているし、ライブハウスというものも、在り方が少しずつ変わってきているのかなという気もするんですよね。
 
西片:そうですよね。『東北ライブハウス大作戦』に関していえば、立ち上げからオープンのときから、ほかとは違う経緯でできたライブハウスというところで、もう助走のストーリーはできていたと思うんですよ。そこから先、どう変わっていくかということですよね。自分の世代でいうと、いま51歳なんですが、わかる人はわかると思うんですが、やはりライブハウスってこうあるべきだということを感じている人たち、気持ちをもっている人たちは多いと思うのですが、いまはアイドルが出たりとかしますしね。
 
でも、自分はそれでいいと思うんですよ。しかも沿岸部にできた、いままでライブハウスがなかった町にライブハウスを作ったら、CD背負ってやってきた演歌歌手の人も歌っていってくださいでいいと思うし、合唱コンクールもあって、お披露目したいから保護者を呼んでここでやらせてくださいでもいいと思うし。実際、自分がライブハウスを作ろうと思って沿岸部に行っていたときって、その発表の場すらまったくなかったような状態だったので。とにかく集まれる場所というのが大事なんですよ。
 
Misao:ライブハウスといえばロックというイメージだった昭和の時代とは違い、アイドルのライブもある。音楽のジャンルも文化も多様化してきているから、それに沿ってライブハウスも変容してきていますよね。
 
西片:自分らはどっぷり漬かっていたからわかっていなかったですけど、当時のライブハウスなんかはマイノリティーの極みですよ。ちょっと変わっていて友達がいなかったやつらが何のライブをやっているか知らなくても、ライブが終わってから21時ぐらいにライブハウスに行くと誰かしら集まって飲んでいる。そんな場所だったんですね。でも、いまはアイドルや演歌歌手が使ってくれてもいいし、誰が来てくれてもいい。震災があったあの町で「今日何をやってんの?」と集まれる。麻雀大会をやっても、料理教室をやってもいいんですよ。そんなライブハウスであってほしいなと思って。
 
なので、ロックじゃなきゃダメとか、自分はいまは思ってないですね。それで築き上げた歴史を崩すことはないと思うんですけど、元々歴史なんかないし、歴史は自分たちで作るべきだと思うんですよ。さっきおっしゃったように震災から10年経ちますけど、でかいですよ、やはり10年って。区切りの数字でもある。でも、この先も『東北ライブハウス大作戦』の活動はずっと続けていくことなので、10年経ったらお店をどう変えようとか15年経ったらどう変えようじゃなくて、常に成長したり受け入れたり、生み出したりという場であり続けてほしいなという気持ちですね。
 
 
ーそれが力につながるのか、強さに還元できるのかー
 
Misao:私たちが主催している官邸前抗議に参加されていたとうかがっています。
 
西片:それまでデモにはあまり参加したことがなかったんですが、思っていることはあっても、行ってみないとわからないというのがありました。行動して失敗して壁に当たることはたくさんあるんですけど、まず行ってみるというのは、震災以降、純粋に身についたことなのかなという感じで、官邸前のデモもあまり考えずに、反射的に行動に移す感じで参加していましたね。
 
それに対して、仲間の確認は別にいらないし、「オレは行くけどどうする?」みたいな、ナンセンスな話じゃないですし。地方帰りに寄って帰れるな、時間あるじゃん、じゃあ寄ろうというような、自分的な段取りですよね。都内にいて、友達と時間を過ごしているときに「ごめん、オレちょっとデモ行かなきゃならないから」というのはないですよ。でも、時間を有効に使えることだと思うし時間をムダにしたくないから、時間が空いているときには行っていましたね。
 
官邸前に行くとデモに来ていた仲間たちがいたりして、ほどなくするとどこかで集まっているんですよね。「おお、お疲れ!」って感じで、そこでまた会話に花が咲くみたいなことがあったりね。仲間とはデモに行く行かない、の連絡はほとんどなかったんですが、家では一回ありましたね。自分が「これから官邸前に行くけど、どう?」と家内と娘に聞いたら「あ、行きたい」と言うので、一緒に行ったことがありました。デモに行ったら、うちの息子に会ったこともあります。学校の仲間たちと一緒に歌っていましたね。
 
Misao:デモの現場でどう思われましたか?
 
西片:まず、怒りの感情のほうが出しやすいんだなと。これだけの人が怒って集まっているけど、これだけの人が喜んで集まることはあるのかなと思ったりもしましたが、やはり圧倒されたのは、これだけの人たちがここにいるということですよね。それが力につながるのか、強さに還元できるのかということを思ったり、続けていくことも大事なんだろうなと思ったし、何しろあの人の数。日本がワールドカップで優勝して凱旋してパレードするぜ、みたいなときでもあれだけ集まるかなと思いました。いてもたってもいられずに、というよりは、そのさまを分析していたかもしれないですね。
 
Misao:私もそうですね。性格的なものもありますが、やはり主催者だし、加えて現場責任者だったので、かなり客観視していたように思います。参加者の皆さんは怒ったり泣いたりの全開で、すごい熱量でエモーショナルなものが渦巻いていましたけど、自分はそことはちょっと違う世界にいた感じでした。
 
西片:みんなの思いはひとつになっているんだけど、どっちに行けばいいんだよ、とイラついている人もいたりして、いろいろな気持ちが渦巻いているのが見えましたよね。ぼくも人が集まっているところに身を置くことが多いので、その捌きは大丈夫かな、みたいなところに目がいくんですよね。つい、全体に目配せしてしまうんですよね。
 
Misao:当時は本当にいろんなことがありましたが、誘導をしていた女子スタッフを泣かしたりするオヤジとか、左翼活動家がいたんですよ。「オマエら警察の犬だ!」とか怒鳴って罵倒したりして。
 
西片:いや、そこまでいったら取り仕切る側の人たちは、自分たちの主張を政府にぶつけるところからちょっと外れたところで頑張んないと、ということですよね。
 
Misao:あとはやはり、ケガ人は出さないという考えがありました。決壊して車道に人があふれたときも、一番前で「官邸に突入だ!」と騒いでいたのは中核派とか革マル派のセクトの人たちで、ほかの人たちはギューギューでしんどいから、車道に出てきていたんですね。私自身は勝算があれば、いま香港で起こっているようなことは容認できたんですが、そのときは状況として整っていないと思ったんです。だから、やはり安全で抗議を続けられるようにという方針で、パパッと判断がつきました。
 
西片:俯瞰で見て、もう一個広い視野というか器で見ていられた感じはあったわけですね。運営とか指示出しとかも、もちろん大変だったと思うんですけれども、行くなら行くというところも物差しをちゃんと持ちながらということだったわけですね。
 
Misao:そうですね。ここにいるほとんどの人たちはこれ以上の行動を望んでないだろうし、耐えられないだろうと、5秒くらいで判断しました。
 
西片:ただケガをさせて終わりですよね。
 
 

ーPAとしてのキャリアー 
 
Misao:西片さんご本人についてのお話しをうかがいたいと思います。反原連もたいへんお世話になっているライブハウス『ロフト・プロジェクト』から、PAのキャリアをスタートされたと聞いています。ミュージシャンとして音楽を目指すという気持ちとかあったのでしょうか?
 
西片:いいえ、全然。スポーツとか体を動かす方が好きだったので、音楽はまったくでしたね。でも、6つ年上の兄が洋楽を聴いていたので、洋楽聴き始めたのはめちゃくちゃ早かったし好きでしたけど、自分で音楽をやろうとは思っていなかったです。好きだったし興味はあったけどで、できっこないという感覚でしたね。音楽の成績も悪かったし、音符とか全然わけわからなかったし。洋楽は小二のときにクイーンがはじめてだったんですよ、リアルタイムで。中学のときにはパンクをかじっていたんですけど、楽器をやろうというよりは、PAをやろうと思った方が先でしたね。
 
Misao:そのきっかけは?
 
西片:その兄がぼくが中学に上がるときに、進学で新潟から上京したんですよ。それで、中1から中2になる春休みに東京に遊びに行って。兄は新宿の大久保に住んでいたんですが、アパートに着いて荷物を置いて、その足で行ったのがロフトだったんです。兄が飲みに行くのに付き合ったんですが、もうわけがわからないんですよ。何の場所かもわからない。それで、行くと「おう!」みたいな感じで知り合いがいるわけです。髪の毛の長いハードロックのお兄さんとかいろいろな人たちがいて、弟だと紹介してもらって。なんだここは? みたいな感じでしたね。
 
湿度感といい暗さといい匂いといい、どれも体験したことがなかったので、ハマってしまいましたね。翌日、兄がバイトの休みを取ってくれて「どこに行きたい?」と聞かれて、「昨日のところに行きたい」と言ったんです。兄は、ぼくがまだガキだったので動物園とか水族館に行くかとか、浅草に連れて行こうかとプランを練っていたみたいなんですけど、自分は「いやいや、またあそこに行きたいんだ」と。昔のロフトは入替制で喫茶営業をやっていたんですよ。水族館があって中二階みたいなのがあって、アコーディオンカーテンがあって。よく覚えています。
 
前日はパブタイムだったんですが、その夜はライブに行ったんです。そこでPAの人を見て「あの人はなにをやっている人だ?」と、もういろいろなことに興味津々になってしまって。「あの人はあそこで何をやっているの?」「あれは、音響、PAといって、マイク立ててあそこから鳴らしているんだ」。「あれは何?」と、もうスピーカーすらわからないんですよ。家は電器屋だったので、カラオケのスピーカーみたいなやつがスピーカーだと思っていたし。そこからですね。ライブハウスの虜になって。それでPAに興味が湧いて。バンドで食っていきたいとかは一回も思ったことはないし、ぼくはバンド崩れの音響屋じゃないので、PAのエリートですよ(笑)
 
そのあとは、地元の新潟で中学、高校と通いましたが、話が合う友達はあまりいなかったですね。スターリンのレコードを持っていても「なんだこれ?」で終わるわけじゃないですか、同世代は。でも高校ぐらいになると、少しずつ話せる友達もできたりしました。ルースターズとかアナーキーの話しをしたり、タワーレコードの袋をぶら下げて歩くのがステータスみたいな感じで、ブイブイいわせていました(笑) でも、長期休暇のときは常に東京にいましたね。春、夏、秋と。
 
Misao:で、ロフトに行ったりして。
 
西片:ほぼ、ロフトが多かったですね。当時、新宿にあったルイードにも行っていましたが、白井貴子とかシャネルズとかまだ出ていましたね。それから、高校卒業して上京して、音響の専門学校に行きながらロフトに入るわけです。で、下積みがはじまって、何年だったかな? 1998~1999年ぐらいですかね。下北沢のシェルターを作って、その後、ロフト・プロジェクトを辞めてフリーになりました。Hi-STANDARD、BACK DROP BOMB、HUSKING BEE、BRAHMANのレギュラー4バンドでフリーのキャリアをスタートさせて、以降ずっとフリーでやっています。一緒にやってくれる仲間が増えたり減ったりを繰り返しながら、いまに至るという感じですね。
 
 
ー温度を感じられない時代ー
 
Misao:西片さんが生きている中で大切にしていることはありますか?
 
西片:純粋でありたいなと思います。たぶん自分は全然そうじゃないと思うんですよ。濁りきっているし、悪いことをたくさんしてきている中で、今この歳になって色んな経験もしてきて、純粋でいたいなと最近すごく思いますね。楽しくいたいとかかっこよくいたいとかというのはあるんですけど、自分のなかで大切にすることや、どうあるべきかと思うと、純粋でいられたらいいなと思いますね。純粋にかっこよくなりたいし、純粋に楽しみたいし、純粋に泣きたいし、純粋に怒りたいですね。
 
自分は、純粋じゃなかったんだと思います。ただ、格好をつけたいとか、ただ楽しみたいとか。そうではなくて、純粋にそれがやりたいというふうに、いま仕事でもいろいろなキャリア積んできて思うんですよね。若い子たちとも話をする機会があったりしますが、自分が「最近の若い子達は」なんて言葉を使うようなオヤジになるなんて、思っていなかったんですよね。元々この歳まで生きるつもりもなかったのかもしれないし。
 
ただ、今、それを言葉に出す自分を感じているんですね。それは老いを感じているだけじゃなくて、自分のキャリアを感じているんですよ。ライブハウスを作る、みんなと一緒にどう作ればいいのか。自分が作ったなんて思ってないんですよ、みんなで作ったんだから。みんなで作るにはどうしたらいいのかということをすごく考えていたし。仕事に関して、音響に関しても、絶対の自信を持っているところもある。それを、若い人たちにどう伝えていくべきか考えるし、共有して調和していければいいなと思うんですけどね。
 
Misao:今の社会や政治に対しては、どんな感覚をもっていらっしゃるんですか?
 
西片:人がくっついているようで交わってはいないですよね。みんな不安だからね。ここまではくっつくけど、肩と肩が触れあっている感覚は安心できるけど、それが離れた途端になにかにすがってしまう。それが、SNSだったりスマホだったり、インターネットだったり。でも、人の気持ちの中まで介入して交わりをもてる関係性を、どのくらいの人たちが築いているのかなと思いますね。それがどんどん加速していて、自分もそうなんですけど、一人で飯食えなくなってきているんですよ。
 
Misao:そうなんですか、それはヤバくないですか。
 
西片:うん、女子率が高まっているんですよ、自分も。ひとりラーメンとかもってのほかですね。要するに昔のロフトとかって、きょう何をやっているかわからないけれど、あそこに行けば誰かに会えるとかで、マイノリティーのさびしんぼうが集まるわけですよね。で、お酒を飲みながら知り合うわけです、仲間ができるわけですよ。近所のラーメン屋でさえもそうだった。2回ぐらい見たことがあったら、目と目が合ったら「こんにちは」と。それがいまなくなってきていて、すごく冷たい社会になっている。
 
政治に関してもそんな感じがしますね。冷たいし、伝わらないじゃないですか。あの人たちが言っていることは。生活レベルでも政治レベルでも温かみというか温度を感じられない時代ですね。でも、昔は政治にも夢や希望があったような気がするんですよ。自分は地元が新潟なので、田中角栄の話をよく聞くんですね。自分も尊敬しているし。うちの父が陳情で目白に行ったことがあったんですが、角栄はみんなと会ってくれる。話を聞いてくれて「よしわかった」と言って、翌年にはトンネルができるみたいなかんじで、どんどん動かしていく人だったと聞いています。
 
あの雪深いエリアの生活がどれだけ辛いかということや、貧しいところからトップになることの難しさをあの人はわかっていた。底辺から上がっていったので、すべての尺度と経験を持っていたんじゃないかなと思うんです。小学校を卒業して総理大臣になる。日本の裏の裏と言われているところと首都圏を結ぶ。お坊ちゃんの二世議員にはわからんでしょう。でも元をたどると自分たちが政治家を選んでいることにつながってくるので、そこの意識は変えないといけないんじゃないですかね。
 
 

ー伝えたいことを伝えたい人に明確にできる時間ー
 
Misao:温度を感じられる社会を取り戻すために、大切なことは何だと思いますか?
 
西片:言いたいことを言って、伝えたいことを伝えて、みんながそうなればいいなと思いますね。あまりしゃべらなくなってきていると思うんですよね、みんな。会話しない。みんなスマホいじってばかりだから、まずそれを置いて。せめて2人でいるときにはやめようよ、みたいなね。
 
Misao:読書とかニュースチェックも、スマホで済ませられますからね。でも本や新聞紙の質感ってあるじゃないですか。紙をめくるという手の感触もあるわけでしょう、視覚だけじゃなくて。あの感覚がなくなるというのは、どうなんだろうと思いますね。
 
西片:そうなんですよ。震災があったときも紙って本当に大事だなと思ったんです。被災地で、写真とアルバムを探している人がたくさんいたんですよ。見つけて洗って干して大切にしていました。データは消えてなくなるし、全部同じ重さになっちゃう。写真もなにもかも全部同じ重さで、全部同じサイズになる。ジャケットにしても、CDじゃなくてレコードのサイズだから格好がいいわけで。
 
Misao:CDのジャケを飾る気にならないですもんね、部屋に。レコードジャケのあのサイズ感と質感ですよね。紙の発明で人類の文明も変わったと思うのですが、いまデジタルがそれにとって変わりつつありますよね。
 
西片:なくなってほしくはないし、なくなんないとは思いますよ。東京のライブハウスってどこもかしこも毎日やっていて、毎日ブッキングが入っていて毎日お客さんが入っているわけです。で、フェスも各地であれだけたくさんある。人が集まることって上がるんですよ、高揚することなので。それと同じで、レコードみたいなレア感とまではいかないですが、アナログ的なものごとってゼロには絶対にならないとは思うんですけどね。
 
Misao:私もそう思います。このインタビューを紙に印刷するのも、そういう思いもあるし、ネット環境にいない高齢の方も多いので、紙媒体も必要だと思います。
 
西片:ゴッチ(後藤正文)が『FUTURE TIMES』を紙でも発行しているのも、たぶん、そういうところをすごく理解していると思うんですよね。
 
Misao:実質的なプライオリティでいえば、やはりネットとかデータだとは思いますけど、紙とかアナログなものは無くなりはしないですね、きっと。最後に、あえて、いまの若い人たちに伝えたいことがあれば、お願いします。
 
西片:やはり、言いたいことを言って、思っていることを伝えることを面倒くさがらないで欲しいですね。若い人っていうところにカテゴライズを求めるなら、フェイス・トゥ・フェイスで顔を見合わせて相手に伝えることができれば、いいんじゃないかなと思いますね。不特定多数に向けてのSNSとかTwitterとかで自分の気持ちを言うのではなくて、伝えたい人に伝えたい気持ちを言うことが、大事だと思います。それは、どんなことでもいいと思うんですよ。
 
喧嘩した後に謝るのはすごく辛いけど、顔を合わせてちゃんと頭を下げないと伝わらないというのはありますよね。「さっきはごめんね」とメールとかLINEすると、「ああ、いいよ」で返すしかないですけど、本当の意味ではないような気がします。ただ流したいだけかもしれないから、また繰り返して同じことで揉めるハメになるかもしれないと思うんですよ。だって本心では悪いと思っていないかもしれないでしょ。さっきの社会的に不足しているものともつながるんですが、若い人たちには、伝えたいことを伝えたい人に明確にできる時間をもってほしいなと思います。
 
 
(2019年9月12日 東京都渋谷区にて)
 
 
 
西片明人(にしかた・あきひと) <プロフィール>
1968年生まれ、新潟県出身。SPC peak performance代表。’86年、新宿ロフトでPAエンジニアとしてのキャリアをスタート。’97年に独立、’00年にSPC peak performanceを設立する。これまでHi-STANDARD、BRAHMAN、MONOEYESなど多くのバンドを担当。’11年より「東北ライブハウス大作戦」の作戦本部長を務める。
 
【東北ライブハウス大作戦】http://www.livehouse-daisakusen.com/
 


<予告>NO NUKES! human chains vol.12
このインタビュー・シリーズでは、ゲストのかたに次のゲストをご紹介いただきます。西片明人さんからは、KOさん(SLANG)をご紹介いただきました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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